名馬「するすみ」の像
 当山開基梶原景時は源氏の武将その子梶原源太景季は父共々源平の合戦に出陣して数々の武勲を上げた。頼朝は恩賞として頼朝の名馬「するすみ」を景季に「池月」を佐々木高綱に与えた。
宇治川合戦での先陣争いは名勝負としてあまりにも有名である。
 その「するすみ塚」は当山南二丁の処(南馬込
三丁目臼田坂上)に祀られている。
 その昔馬込一帯は丘陵台地で馬の放牧が盛んであった「するすみ」は馬込の産とも云われて生地に葬り祀ったと云われている。
「するすみ」の紋所は鎌倉殿の「源氏笹りんどう 」である。
 この「するすみ」の像は当山創建八百年を記念して供養のため梶原家ゆかりの当山に建立したものである。
   昭和61年 秋彼岸会
   萬福寺護持会   (説明板から)
    
千束八幡神社
武蔵国
むさしのくに
せんぞくはちまん
じんじゃ
千國写真館
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その1
御 由 緒
 御祭神 品陀和気之命(鷹神天皇)
當社は千束八幡神社と稱し、平安前期の貞観二年豊前國宇佐八幡を勧請し往時の千束郷の総鎮守としてこの當上に創建せられ、今日に至る。
 承平五年平将門の乱が起こる、朝廷より鎮守副将軍として藤原忠方が派遣せられたり、乱後忠方は池畔に館を構え、八幡宮を吾が氏神として篤く祀りき、館が池の上手に当るに依りて池上氏を呼構、この九代目の子孫が日蓮を身延から招請す、之池上康光なり
 又八幡太郎義家奥羽征討の砌、この池にて顔を修じ、社前に額づき戦勝祈願をなし出陣せりと伝えらる、源頼朝も亦鎌倉に上がる途決、この地を過ぐるに八幡宮の旗織を建つる哉、近郷より将兵集まりて、鎌倉に入る事を得、旗挙げ八幡の稱あり、名馬池月を得たるも此処に宿営の折なりとの傳承あり。
 尚境内に武蔵國随一と云われし大松ありしが、大正十三年惜しくも枯衰し今はその雄姿を見るすべもなし。
 古歌に「日が暮れて足もと暗き帰るざに空に映れる千束の松」と詠まれて居り、老松の偉容が想像されよう。
 ◇の如く當八幡神社は域南屈指の古社にて一亦名社なり
        宮司 恵良彰紀識       (説明板から)
千束八幡神社
 (旗挙げ神社)
慈眼山萬福寺(するすみ像)
地図リンク
地図リンク
するすみ塚(明治33年建立)
肉屋さんの裏(するすみ塚)
磨墨の像
名馬 磨墨(するすみ)
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 名馬池月の由来
 治承四年(一一八〇年)源 頼朝が石橋山の合戦に敗れて後、再起して鎌倉へ向かう途中ここ千束郷の大池(今の洗足池)の近く八幡丸の丘に宿営して近隣からの味方の参加を待った。
 或る月明の夜に何処からか一頭の駿馬が陣営に現われ、そのいななく声は天地を震わすほどであった。家来達がこれを捕えて頼朝に献上した。馬体はたくましくその青毛は、さながら池に映る月光の輝くように美しかった。これを池月と命名し頼朝の乗馬とした。 
 寿永三年(一一八四年)有名な宇治川の合戦に拝領の名馬池月に佐々木四郎高綱が乗り、磨墨に乗った梶原源太景季と先陣を競い、遂に池月が一番乗りの栄誉に輝いた。と、史書に伝えられている。
 ここに名馬の銅像を造り、この名馬池月の発生の伝承を永く後世に伝えようとするものである。
   平成九年十月吉日
 洗足風致協会創立六十五周年記念  社団法人 洗足風致協会
  (説明板から) 
 【池月は平家物語中の名場面で、有名過ぎて諸説あり。馬の産地に多い】
池月の像
地図リンク
東京都大田区南千束2丁目【とうきょうと おおたく みなみせんぞく 2ちょうめ】