むさしのくに
せんぞくはちまん
じんじゃ
千束八幡神社
(旗挙げ神社)2
池月橋
勝海舟夫妻の墓
日蓮上人の像
妙福寺
留 魂 祠
日進上人袈裟掛けの松 由来
弘安5年9月(1282年)日蓮上人が身延山から常陸国(茨城県)に湯治に向かう途中、日蓮に帰依していた池上宗仲の館(池上本門寺)を訪れる前、千束池の畔で休息し傍の松に袈裟をかけ池の水で足を洗ったと伝えられる。この言い伝えから、この松を袈裟掛けの松と称することとなり、また千束池を洗足池とも称されるようになったといわれる。
天保期(1830〜1843年)の「嘉陵紀行」によれば、初代の袈裟掛けの松は「枝四面におおい長さ幹囲み三合がかり、高さ五丈あり」程あったと記されている。
なお現在ある松は三代目であると伝えられる。
御 松 庵
社団法人 洗足風致教会 (説明板から)
勝海舟別邸(洗足軒)跡
【現在、大森六中】
馬頭観世音供養塔 大田区文化財
天保一一年(一八四〇)に、馬込村千束の馬医師や馬を飼っている人々によって、馬の健康と死馬の冥福を祈って建てられたものである。
光背をつけた馬頭観世音像の下は、角柱型の道しるべを兼ねており、各面には「北 堀之内・碑文谷 道」「東 江戸中延」「南 池上・大師道」「西 丸子稲毛」というように、東西南北のそれぞれの方向を示す地名か示されている。
この銘文から、もとは中原街道と碑文谷−池上を結ぶ道との交差する地点に建てられたと推定されるが、民有地に移された後、平成一三年に現在地に移設された。
江戸時代後期の民間信仰、交通史を考える上で貴重なものである。
昭和四十九年二月二目指定
大田区教育委員会 (説明板から)
大田区文化財
勝海舟夫妻の墓
勝海舟、諱は義邦、初め麟太郎、後に安房または、安芳ど改め、海舟と号した。文政六年(一八二三)江戸に生れる。幕臣として万延元年(一八六〇)成臨丸で渡米、海軍奉行となり明治元年(一八六八)江戸開城に尽力する。
維新後は海軍卿、伯爵、枢密顧問官などを歴任し、漢詩、書を好み、高橋泥舟・山岡鉄舟とともに幕末三舟と称せられた。
洗足池やその周辺の風光を愛し、明治三十二年(一八九九)没後遺言によりこの地に葬られた。
以下省略 (説明板から)
留 魂 祠(りゅうこんし)
一、祭神 南洲西郷隆盛先生
一、例祭 毎年九月二十四日
由 堵
明治維新の英傑、西郷南洲(隆盛)勝海舟の両先生は、大政奉還後の江戸城の明け渡し交渉によって、江戸の町を戦火より救われ、首都東京の基を築かれたことでも著名ですが勝先生は、晩年、この洗足池畔に洗足軒と呼ぶ別邸を設けられ、南州先生と日本の将来について歓談されたと伝えられます。南洲先生はその後、明治十(一八七七)年の西南戦役により、故郷鹿児島において、子弟三千余と共に逝去されましたが、これを惜しまれた勝先生は、追慕のため南側先生の漢詩を建碑されさらに明治十六(一八八三)年、その魂魄(コンパク)を招祠して留魂祠を建立せられました。留魂祠の名は、漢詩「獄中有感」の「願留魂魄護皇城」に由来するものです。
この留魄祠は、もと東京南葛飾郡大木村上木下川(現、葛飾区東四ツ水一−五−九)の薬妙寺境内にありましたが、勝先生の御遺志により、大正二(一九一三)年、石碑とともに現在の地へ移されました。右隣には勝先生御夫妻の奥津城(御墓所)があり、維新の両雄は、いまなほ相並んで我国の将来を見守っておられるのです。 南州会 (説明板から)
日蓮上人が足を洗った所 ?
東京都大田区南千束2丁目【とうきょうと おおたく みなみせんぞく 2ちょうめ】