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品川神社
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品川神社
                           品川区指定史跡
  板垣退助墓
 板遠退助は、天保八年(一八三七)に土佐(高知県)で生まれた。幕末に藩主山内豊信の側用人となるが、討幕運動や戊辰戦争(一八六八)に参加して功績をあげた。明治七年(一八七四)に愛国公党を結成し、自由民権運動をおこした。明治十四年(一一八八)には自由党を結成して総裁となり、近代日本の政党の基礎を築いた。翌年、岐阜遊説中に刺客に襲われたとき、「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだことばは、当時の若者達を感激させ沸かせた。明治二十九年(一九〇〇)から伊藤内閣や大隈内閣の内相をつとめたが、明治三十三年(一九〇〇)に政界を引退した。大正八年(一九一九)に亡くなり、この地に葬られた。
  平成七年三月三十一日 品川区教育委員会
    (説明板から)
水 盤
左右に昇り龍下り龍の彫刻を施した階段下の石鳥居
          品川神社御由緒
御祭神
天比理乃当ス(アメノヒリノメノミコト)
           天太玉命(天岩戸の神話に登場する神様)の后神。
          祈願成就・航海安全の神。源頼朝公御勧請。
宇賀之売命(ウカノメノミコト)
         お稲荷様。農業・商業・産業繁栄の神。二階堂道蘊公御勧請。
素盞鳴尊(スサノオノミコト)
         天王様。風水害除け・疫病(病気)除けの神。太田道灌公御勧請。

御由緒
今からおよそ八百年程前の平安時代末期の文治三年(一一八七)に、源頼朝公が安房国の洲崎明神(現・千葉県館山市鎮座洲崎神社)の天比理乃当スを当地にお迎えして海上交通安全と祈願成就を祈られたのを創始とします。やがて、鎌倉時代末期の元応元年(一三一九)に二階堂道蘊公が、「宇賀之売命(お稲荷様)」を、さらに室町時代中期の文明十年(一四七八)に、太田道灌公が「素盞鳴尊(天王様)」をそれぞれお祀りしました。
慶長五年(一六〇〇)、徳川家康公が関ヶ原の戦いへ出陣の際に当社へ参拝し戦勝を祈願され、その後、祈願成就の御礼として仮面(天下一嘗の面)・神輿(葵神輿)などを奉納されました。また、寛永十四年(一六三七)三代将軍徳川家光公により東海寺が建立され当社がその鎮守と定められ、「御修覆所(神社の建物の再建・修復などは全て幕府が賄う)」となり、元禄七年(一六九四)・嘉永三年(一八五〇)の二度の社殿の焼失の際には時の将軍の命により再建が行われる等、徳川将軍家の庇護を受けました。
時代は明治に移り、同元年(一八六八)十一月には明治天皇様が、新都・東京の安寧と国家の繁栄を御祈願されるために当社を含んだ都内の十の神社を「准勅祭神社」と定められ、御勅使が御参拝になられ御祈願をされました。大東亜戦争の折は、当社は幸いにして戦火を免れましたが、社殿の老朽化が進み、昭和三十九年(一九六四)氏子各位のご協力により現在の社殿が再建されました。

■年間祭事 __以下省略__   (説明板から)
       品川区指定有形民俗文化財
品川神社富士塚   
  
 富士塚は、富士信仰の集団、富士講の人々が、富士山の遥拝場所として、あるいは実際に富士山への登山ができない講員のために造った築山である。
 品川神社の富士塚は、明治二年(一八六九)、北品川宿の丸嘉講社の講中三百人によって造られた。神仏分離政策で一時破壊されたが、明治五年に再築し、大正十一年(一九二二)第一京浜国道建設の時現在地に移築された。
 江戸後期に盛んだった民間信仰を知る上で、たいせつな文化財である。
   (説明板から)
東京都品川区北品川3丁目【とうきょうと しながわく きたしながわ 3ちょうめ】
一粒萬倍   阿那稲荷社
阿那稲荷神社
品川神社富士塚頂上からの景観
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