いずのくに
みしまたいしゃ
三嶋大社
拝 殿
総 門
三嶋大社の金木犀(キンモクセイ)
この樹木は薄黄木犀の雄木として、日本有数のもので、大社の神木として大切に保存されている。樹齢は一二〇〇年を数えると伝えられ、訪れる参拝者の目を引いている。
根回り約三m、高さ地上約一mのところで、二大枝幹に分かれている。枝の展開は円形であり、その先は地面に届くほど垂れている。
九月上旬から中旬にかけて一度開花し、九月下旬から十月にかけて再び開花する。
淡黄色で可憐な花をつけ、甘い芳香を発するが、その香は神社付近はもちろん、遠方にまで及び、時には二里(約八q)先まで届いたと伝えられている。
平成九年十一月 三島市教育委員会
(説明板から)
神 池
天長四年(八二七)神池の水が渇れ天下旱し神官の訴えにより朝廷は三嶋神殿に於いて澪祭(雨乞)六月十一日から十五日まで大雨が降る、時の帝は当社に圭田を寄せ神官に禄金財帛を腸わった。(類聚国史)
元禄二年(一一八五)八月源頼朝は神池に於いて放生会を行い、その際糠田郷・長崎郷を三嶋社の料と定めた。(吾妻鏡)
(説明板から)
三島大社
三島大社の創建は明らかではないが、鎌倉時代(一一九二〜一三三三)初期には関東総鎮守として源頼朝や多くの武将の尊崇を受けた名社である。
一遍聖絵の社頭と現在のそれとではかなり異なり、消失記録をみると、文永五年(一二六八)と永仁四年(一二九八) に焼け、また延享元年(一七四四)と安政元年(一八五四)の地震で倒壊している。今の社殿は万延元年(一八六〇)から明治二年(一八六九)にかけて再建されたものである。
本殿は流れ造(陳より前方の屋根が、後方の屋根よりも長く反っている建築様式)で切妻屋根(本を半ば開いて伏せた様な形の屋根)、陳には千木・鰹木をつけている。拝殿は入母屋造(上部を入母屋根とし、下部が四すみに棟をおろしている屋根をもった建築様式)で、、ド部かNすみに陳をおろしているり唄をもった建築様式)で、前面には三間の向拝をつけ、正面に千鳥破風と軒唐破風がつく。両殿の間には軒下に納まるように相の間がつくられている、この建築の様式は権現造といわれ。全国的にみて拝殿の大きな神社は数多いが、本殿の大きさは出雲大社とともに国内最大級であり、高さ二m、鬼瓦り高さ四mという豪壮なものである。
彫刻は伊豆国名工小沢希道、駿河国名工後藤芳治良がそれぞれ門人とともに技を競いあって完成した傑作である。
平成十六年三月 三島市教育委員会 (説明板から)
若宮神社
払所神社
静岡県三島市大社町【しずおかけん みしまし たいしゃちょう】