千國写真館
蝦夷地
五稜郭跡
えぞち
ごりょうかくあと
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五稜郭跡
半月堡
半月堡(はんげつほ)は、西洋式土塁に特徴的な三角形状の出塁で、馬出塁(うまだしるい)ともいいます。郭内への出入□を防御するために設置されています。当初の設計では各稜堡閲の5か所に配置する予定でしたが、工事規模の縮小などから、実際には正面の1か所だけに造られました。北側中央部の土坂が開口部となっているほかは、刎ね出しのある石垣で囲まれています。
※刎ね出し武者返し・忍び返しともよぱれ、上から2段目の石が迫り出して積まれているため、外部からの侵入を防ぐ構造になっています。    (説明板から)
箱館奉行所
五稜郭内の箱館奉行所庁舎は、文久2年に建築工事が開始されました。マツ・スギ・ヒバなどの建築材木は能代(現在の秋田県)で加工され、船で箱館に運ぱれて組み立てられました。元治元年に奉行所庁舎が完成し、同年6月には箱館山麓から奉行所が移転して、蝦夷地における政治的中心となりました。なお、五稜郭内の工事や付属建物がすぺて完成したのは2年後の慶応2年です。その後、明治維新により江戸幕府から明治新政府に引き継がれましたが、明治元年から2年にかての箱館戦争時には旧幕府脱走軍の本拠地となりました。
箱館戦争終結後は、ふたたぴ明治政府のものとなりましたが、役所として利用されることはなく、明治4年に開拓使本庁舎の札幌移転に伴い、奉行所庁舎をはじめ郭内のほとんどの建物が解体されました。庁舎解体から140年を経た平成22年、綿密な復元検討を重ねて、箱館奉行所は往時の姿に復元されました。   (説明板から)
土塁・石垣
五稜郭の土塁は、堀割からの場げ土を積んだもので、土を層状に突き固める版築という工法で造られています。郭内への出入□となる3か所の本塁は、一部が石垣造りとなっています。特に正面の出入口となる南西側の本塁石垣は、他の場所の石垣よりも高く築かれていて、上部には「刎ね出し」とよぱれる防御のための迫り出しがあります。
石垣には函館山麓の立待岬から切り出した安山岩や五稜郭北方の山の石が使われています。
※刎ね出し武者返し・忍び返しともよばれ、上から2段目の石が迫り出して種まれているため、外部からの侵入を防ぐ構造になっています。   (説明板から)
特別史跡五稜郭跡
昭和27年3月29日指定五稜郭跡は、幕末の箱館開港に伴い設置された箱館奉行所の防御施設で、箱館奉行配下の諸術調所教授役で蘭学者の武田斐Ξ郎成章により、中世ヨーロッパで発達した城塞都市を参考に設計された西洋式土塁です。稜堡とよぱれる5つの突角が星形の五角形状に土塁がめぐっていることから五稜郭と呼ぱれ、郭内には日本伝統建築の箱館奉行所庁舎とその付属建物20数棟か建てられました。 安政4年に築造を開始して7年後の元治元年に竣工、同年6月に奉行所が移転して蝦夷地こおける政治的中心地となりました。その後、明治維新により明治新政府の役所となりましたが、明治元年10月に榎本武揚率いる旧幕府脱走軍が占拠、翌明治2年5月に終結する箱館戦争の舞台となりました。箱館戦争後は、明治4年に開拓使により郭内建物のほとんどが解体され、大正時代以降は公園として開放されています。
 五稜郭跡は、築造時の形態がよく残っていて日本城郭史上重要であるとともに、幕末期の洋学採用の一端を示すものとして学術上きわめて価値が高いことから、北海道で唯一の国の特別史跡に指定されています。 (説明板から)
北海道函館市五稜郭町【ほっかいどう はこだてし ごりょうかくちょう】
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