千國写真館
太田宿
中山道

おおたしゅく

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太田宿

播髀辮l
1786年:越中国新川郡河内村(富山県大山町)に生まれる
1814年:江戸本所の霊山寺で浄土宗の正式な僧となる。
1826年:第1回槍ヶ岳登山、初登頂する。
1830年:第2回槍ヶ岳登山、山頂に仏像を安置して槍ヶ岳開山を成す。
1833年:第3回槍ヶ岳登山。
1834年:第4回槍ヶ岳登山、山頂にワラで作った「善の綱」をかける。
1835年:第5回槍ヶ岳登山。
1840年:信者らによって槍ヶ岳の山頂に鉄鎖の「善の綱」がかけられ大願成就す。
10月21日、中山道太田宿脇本陣(美濃加茂市)にて死去。
脇本陣の林家は、播驍フ熱心な協力者でした。林家は、太田宿の下町に弥勒寺を建立し、ここに播驍フ墓を作り供養しました。この弥勒寺は後に廃寺となり、その後祐泉寺に移されました。   (説明板から抜粋)

中山道
 中山道は、江戸時代に五街道(東海道・中山道・日光街道奥州街道・甲州街道)のひとつとして開かれました。信濃国を通るので、木曾街道・岐蘇路などと呼ばれていました。江戸日本橋を起点に六十九の宿場が置かれており、草津宿から先は東海道と合流して京都へと続き、往きかう旅人たちで賑わいました。京都までの距離およそ136里(約530km)の間に、いくつもの峠越えや川を渡る難所がありました。
 この地には中山道の太田宿が置かれ、江戸から京都へ向かう場合、太田宿こ入る前には木曽川を渡らなくてはなりませんでした。木曽川の渡し場のことを「太田の渡し」といい、中山道の難所のひとつとして「木曽のかけはし、太田の渡し、碓氷峠がなくぱよい」とうたわれました。
 この街道では、参勤交代で往来した大名や皇女和宮をはじめとする多くの姫君たち、天狗党の一行をこわごわ見ていた坪内雄蔵(後の坪内逍遙)。そして名もなき大多数の旅ぴとたちのさまざまなドラマが展開されたのです。  (説明板から)

太田宿
太田宿は、江戸日本橋からおよそ九十九里(約385q)の位置にあり、伏見宿との間には木曽川が流れており、交通の要衝として栄えました。町並みは東から上町・中町・下町と大きく分かれ、十九世紀中頃の規模は東西に六町十四間(約673m)あり、宿内戸数が118戸の規模でした。この宿場に本陣と脇本陣が中町にそれぞれ一軒あり、旅籠屋などがありました。
 本陣や脇本陣以外の旅宿を旅籠屋といい、主に一般庶民や私用の武士たちが宿泊しました。記録によると太田宿には旅籠屋が20軒あったとされ、旧小松屋(吉田家)もその内の一軒でした。
 この宿場町には、今も残る江戸時代の面影を残すとともに、次の時代に向けてその姿を連綿と受け継いでいます。  (説明板から)

岐阜県美濃加茂市太田本町3丁目【ぎふけん みのかもし おおたほんまち 3ちょうめ】

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