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     上山市指定文化財(昭和三十二年四月二十日指定)
上山城跡 天文四年(一五三五)伊達氏の手から高楯城を奪還した武衛義忠が、ここ天神森に新たに築城して上山城(別名月岡城)と称したと伝えられる。戦国時代の上山は最上氏の被領下にあったと見られ、置賜地方を領する伊達氏や、下っては上杉氏との領界にある境目の城として防衛の最前線の基地となっていた。
 元和八年(一六二二)最上氏改易後は松平(能見)、土岐、金森、松平(藤井)各氏の居城となった。この内最も城郭・城下が整備されたのが土岐時代で、内外にニ重の堀を巡らし本丸には居館、三階櫓、角槽か聳え、その下段に二の丸北の丸を備え東には桝形を伴った大手門を構えたその壮麗な姿が堀の水面に映えたと言う。 しかし元禄五年(十六九二)土岐氏の転封と同時に幕命によリ破却され、以後は入部した領主による部分的修復に止まり旧に復することなく幕末を迎えた。今の上山城は昭和五十七年ニの丸に再建されたものである.
    上山市教育委員会  (説明板から)

   上山城の沿革
 上山城は、室町時代の応永年間初期(一四0O年前後)に、羽州探題で最上氏の祖、斯波兼頼の曾孫里見満長が初めて着封、上山殿と称し虚空蔵山に山城を築いたのが初めとされ、当時は高楯城または亀ケ岡城とも言われていた。
 永正十一年(一五一四)には、伊建稙宗に攻略され、翌年和睦し返還、五年後に再び攻略されたが、天文四年(一五三五)満長の子孫武衛義忠が挙兵して奪還した。 同年高楯城を廃して、新たにこの地天神森に平山城を築き、月岡城とも称した。
 その後、城主は武衛氏三代、里見氏、元和八年(一六二二)最上家改易後、能見松平氏、蒲生氏等を経て、土岐氏二代が領した十七世妃の後期には、城郭として最も整備され、白壁の城壁をめぐらし、後景には四季折々の縁や紅葉に映えた上山城は、小藩(二万五〇〇〇石)ながら奥羽の名城と称されていたと伝えられている。
 しかし、元禄五年(一六九二)土岐氏が転封直後、幕府の命により跡形もなく破壊された。 以来、上山藩は金森氏、藤井松平氏(三万石)一〇代の治頷下で一七〇余年間、代々城の再建が宿願であったが、明治維新まで一部を修復するに止まり、再築されることは無かった。 周囲の堀も、明治五年に埋め立てられ、城の西側に僅かに内堀の名残を留めている。 現在の上山城は、昭和五十七年に旧ニの九跡に城郭風の郷土資料館として建設したものである。  (説明板から)

山形県上山市元城内 【やまがたけん かみのやまし もとじょうない】

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上山城(月岡城)