鎧掛松
元亀三年(一五七二)家康は三方原の合戦から城に帰り、大きな松の木陰で休んだ。そのとき鎧を脱いでその松に掛けたことから、鎧掛松と呼ばれている。この松は昭和五十六年に元城町の人々の手により植樹された三代目。初代は浜松城内の堀のそばにあった。 また、当時は鎧掛松近くの清水で合戦により疲れた馬のからだを冷やしたところは、馬冷と言って、その地名が今も松城町内に残っている。 浜松市 (説明板から)
井戸
この井戸は、銀明水と呼ばれていたという。
浜松城には、天守台に一つ、天守曲輪の埋門のそばに一つ、本丸に一つ、二の丸に三つ、作左曲輪に四つ、計十本の井戸があったという。天守台の井戸は、再建の時に残し、今は天守閣の地下室にある。直経一・三m、深さは現在一mほとになっており水はない。
とおとうみのくに
はままつじょう
浜松城跡
浜松城は徳川家康が遠州後略の拠点として築いた城で、元亀元年(1570)六月に入城し、十七年間在城した。東西六〇〇メートル、南北六五〇メートルの規模で、南の東海道に大手門が開き、東から西へ三之丸、二之丸、本丸、天守台と連なり、順次高さを増す。ここは、その天守曲輪の跡である。家康の後、城主は代々譜代の大名が勤め、在城中に老中まで栄進した人が多い。中でも水野越前守忠邦の名はよく知られている。石垣は、野づら積みと呼ばれる堅固な作りで、古い石垣の特徴をよく残しており、浜松市の史跡に指定されている。浜松市 (説明板から)
浜松城の石垣(野面積み)
浜松械の石垣は見るからに荒々しく、外観は粗雑で一見崩れやすいように思えますが、四百年の風雪に耐え、いまなお当時の面影を残しています。この石垣は野面積みといい、自然石を上下に組み合わせて積む方法で、慶長(一五九六年〜−六−五年)以前はこの方法が多く用いられていました。以下省略 (説明板から)
静岡県浜松市中区元城町【しずおかけん はままつし なかく もとしろちょう】