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高光公と猿虎蛇の由来
高賀神社の縁起によれば奈良時代(約一千三百年前)高賀山に妖魔が住みつき、この地はもとより遠く都にまでも黒雲を駆け夜毎出没しては人々に危害を加え深く帝をなやましたのである。帝は、藤原高光公に是れが退治の勅命を発せられました。早速、高光公は勇者廿数名を伴なってこの高賀の里に来りて、峯々谷々を隈なく狩られるも、妖魔は姿をあらわすことなくただいたずらに日数を重ねるばかりであった。妖魔は、時には「ぶくべ」にある時には「かぶら」に変身しては峯高くあるいは谷深く住み替え容易にその正体を表さなかった 
高光公は、そこで高賀神社の神前にぬかずき三七二十一日の願をかけられた。その甲斐あって満願の日、神は瓢(フクベ)ケ岳に御降臨となり高光公に必殺の弓矢を下し賜われた。善貴星なる神の御先導により山奥深く入り給えば妖魔はすでに其の気配を感じてか呻り声は山々谷々に地鳴りして容易に近ずき難き様相なるも高光公は勇を鼓らして進むほどに巨大なる岩堂あり、高光公一行が突入せんとするや妖魔は猛然として襲い来ること幾度か、もはやこれまでと高光公は神より拝受の弓に満身こめて矢を放てば、猛り狂うさしもの妖魔も大音たてて地に伏した。熱戦実に十数合武運目出度く取り押えて見れば・・何んと、頭は猿で胴体は虎、尾は蛇の姿の妖怪であった。多くの民人に危害を加えた妖魔に最後の止めを刺さんと高光公が跨がれば尾の大蛇までもが大口開いてはげしく抵抗したが高賀神社の大神より授かりしお力で目出度く本懐を遂げられたのであります。高賀神社は養老元年創建になる勝負の神、弓矢の神、大願成就の守神、降伏魔災のご祈願所として広く尊崇を集め今日に到っている。

  一九八八年(昭和六三年)八月八日  高賀神社   (説明板から)

高賀神社
霊亀年間(715-717)に夜な夜な怪しい光が出て当地の方向に飛んでいくのを、都の人々が目撃し驚いた。そこで高賀山の麓に神壇を飾ったところ、この光が出現しなくなった。これが高賀山本神宮の始まりである。その後、牛に似た妖怪が住みつき、村人に被害を加えていたので、承平三年(933)に天皇の勅命を受けた藤原高光がこれを退治し、高賀山麓に神々を祀ったという。また、天暦年間(947〜956)にも妖怪が出没し、再び藤原高光が退治した。この時、高賀神社、那比神宮神社(八幡町)、那比本宮神社(八幡町)、星宮神社(美並町)滝神社(美濃市)、金峰神社(美濃市)六社が祀られた。近世になると、三度妖怪が現れ、近衛天皇の時(1142〜1155)「頭は猿、体は虎、尾は蛇」の姿をした怪獣が現れ、とされ今日まで『さるとらへび伝説』として伝えられています。なお、美並村を流れる粥川の鰻が藤原高光の案内をしたと伝えられて、今日でもこの地区の人々は鰻を殺さないとのことで、現在、ここに生息する鰻は天然記念物に指定されています。  高賀神社・高賀山信仰は、現存する文化財から次のような歴史が言われています。平安時代末期には既に仏教道場として繁栄し、観音信仰があったと考えられ、また、鎌倉時代後期には虚空蔵菩薩信仰が導入され「高賀山修験」が成立したと言われている。また、鎌倉時代以降から明治時代の神仏分離までは、神道の神の姿をとらず、本地仏としての虚空蔵菩薩を主神としてきたとされ、岐阜県と石川県に跨る白山を中心とした白山信仰に見るように、人々の生活を守る神、自然崇拝の神としではなく、高賀山麓一帯の農耕に大切な水や雨を司る神の山として尊ぶその信仰がこの地に成立した。    (説明板から)

高賀神社

こうか じんじゃ

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千國写真館
高賀神社

円空とは
江戸時代前期の寛永9年(1632)美濃の国(現在の岐阜県)にうまれ、若くして出家し、仏道修行にはげみ、生涯に12万体の仏像造顕の悲願をたて、諸国遊行の旅にでた天台宗の修験僧で、その足跡は北海道、青森、秋田、宮城、山形、群馬、栃木、茨城、埼玉、東京、長野、愛知、岐阜、富山、三重、滋賀、奈良、元禄5年悲願の12万体の造顕を果たし、そして同8年(1695)7月15日孟蘭盆、64歳で岐阜県関市池尻の長良川畔で入寂した。(説明板から)

岐阜県関市洞戸高賀【ぎふけん せきし ほらど こうか】