史跡 青の洞門
禅海和尚がこの洞門をくりぬいたのは享保年間(徳川吉宗の頃、西暦一七〇〇年代)の事である。
和尚は××の人で佛道修行の為、諸国を遍歴してたまたまこの地に来たのであるが、その頃この付近は鎖渡と称し岩角に板をならべ、水際には鎖を施して通行した為に踏み外して人馬が傷付くことが多かった。 和尚の慈悲心はこの難所を除くべく遂に、一大祈願を起こじたけれど、その頃、誰一人として耳を貸す者は無かった。和尚は他をたのむの愚なるを思い只一人鑿と槌を執って、この大岸壁に立ち向かつた。一槌一鑿の先からは火花が散り、一年一年洞は深さを増していった。 やがてヽ和尚の念願の深さに率いられた多くの人々が力を合わせて、三〇年この洞門は遂に完成したのである。 完成した洞門の総延長は点在する五ヵ所の洞(合計長、一四四m)を合わせて三四二mにも及ぶ。 当時の洞門は明治年間に行われた二回の改修工事のため今では入口の第一鑿と昭和四十一年一月に発見された南寄りの出口、延長二十五mのみが、昔ながらの姿をとどめている。
(説明版から)
あおのどうもん
大分県中津市本耶馬渓町曽木【おおいたけん なかつし ほんやばけい まちそぎ】