山口県下関市大字彦島【やまぐちけん しものせきし おおあざ ひこしま】

佐々木小次郎
周防国岩国とも福井県足羽の生まれとも、とにかく出目、生年等ほとんどが謎につつまれている。 中条流を学び、剣の腕を磨いた、剣の天才であった。自ら厳流という流派を興し、刃渡り九〇センチ以上もある長刀をあやつり小倉藩の指南役に抜擢される。頭上から一気に振り下ろし剣先をひるがえして下から切る「燕返し」をもって巌流島(舟島)にて武蔵と対決す。

宮本武蔵
生まれは、兵庫県とも岡山県英田群宮本村ともいわれている。生涯を剣術探求捧げ生み出した兵法が、大刀を右手に小刀を左手に持ち自在に操る二天一流である。わずか十三歳にして初めての仕合をかわきりに吉岡一門との仕合、大阪冬・夏の陣の激戦も経験。小次郎との「巌流島の決闘」等、多くの仕合に勝つてきたが、ほとんどが撲殺だともいわれている。謎につつまれた天下無双、宮本武蔵。

千國写真館
(船島)
巌流島

がんりゅうじま

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巌流島の決闘

巌流島 (船島)

古代伝説
 本州と九州の間は陸続きでその下に潮の流れる穴があったが、長年の浸蝕と地殻変動によりいつの時代にか陥没、その流れた土壌が船島となったと平田篤胤説を公表、それまでは本居宣長の『古事記伝』に書いた「土壌が流れて引島に」や大同小異の伝説があった。 島名は、下閏側で 「舟島(現在は船島)」、小倉側で「向島」とヽそれぞれ違った呼び方が受け継がれることになる。慶長17年(一六一二)4月13日 (12日・14日説あり)  宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘。嘉永2年(一八四九)7月 吉田松陰が下関周辺を視察。巌流島に上陸。小次郎の墓に参り、  「近くの山に二郎兵衛がからいどあり」と書き遺している。明治43年(一九一〇)10月31日  「佐々木巌流の碑」が島に建立される。大正10年(一九二一)11月2日 斉藤茂吉が渡欧の途中に島へ渡り、  「わが心いたく悲しみこの島に命おとしし人をしぞおもふ」 など歌三首と随筆 「巌流島」を残す。その後、斉藤茂吉と 菊池寛が武蔵と小次郎の大論争を展開。昭和30年(1955) 巌流島の住民がピーク時約30軒になる(50軒近いとの説あり)     (以下省略)  (説明版から)

巌流島
 正式名称は、船島です。(下関市大字彦島字船島)
島の面積は埋立て部分を含めると十万三千平方メートルの広さです。慶長十七年(一六一二年)四月十三日、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘が行われたことは、あまりにも有名です。「二天記」によると、巳の刻過(午前十時)武蔵が到着。待ちくたびれた小次郎との間で決闘が始まりました。武蔵の木刀は振り下され、頭上を打ちました。小次郎もまた太刀を払いましたが、武蔵の木刀は小次郎の脇腹に振り下され、勝敗は決しました。勝った武蔵も相当慌てていたらしく、とどめをさすのも忘れ、船に飛乗ったということです。負けた小次郎の流派にちなんで、巌流島と呼ばれるようになりました。  (説明版から)

地図リンク
忘れ物:宮本武蔵の小舟 ・・・?
今日は、船賃無料でした。
佐々木巌流の碑
巌流島の休憩所からの資料