こうずけのくに
こもちじんじゃ
御足形の由来
子持神社は平安中期本山の岩屋に奉鎮其の後室町末に上野大守上杉憲顕が現地に御社殿を建て遷座されたと伝えられます その御社の大災にあはれた時御祭神が本山の霊地にひなんされた時御本殿下の敷石につけられたのが此の御足形と伝へられます 子持ち神社宮司牧隼人誌
第六十回伊勢神宮奉賛記念として
昭和四十六年五月一日建立
石工 山崎八郎(石碑から)
子持神社
旧郷社で、古くから子授け・安産の守護神として近在の信仰を集めている。
神社の創建は崇神とも、嵯峨ともい抑れているかわからない。日本武尊が蝦夷征伐の際、ひそかにこの山にこもって木花開耶姫命と七柱の大神たちをまって征伐に出向き、その加護によって平定の業をとげられたとも言われている。
「上野国神名帳」には神位従五位上と記されている。また、中世の唱導文芸として知られる、神道集の「上野国児持山之事」などの写が残されている。 上杉氏や小田原北条氏、武田信玄ら諸武将の崇敬を受けて栄え、徳川幕府より朱印地二十石を賜わっていた。 境内地は約3万3、500平方メートルと広く、古樹大木が茂って風致に富んでいる。今の神明権現造りの社殿は、昭和31年(1956)の再建になるものだが、あたりに茂りあう木々と調和して、渋い美観をただよわせている。 例祭日は5月1日で太々神楽が奉納され、近在からの参拝客でにぎわう。またこの日が格好のハイキング地として知られる子持山の、山開きともなっている。(説明板から)
群馬県渋川市中郷【ぐんまけんしぶかわしなかごう】