館内に
 浜口梧陵記念館・
 津波防災教育センターがある。



・津波のシュミレーション

・安政地震津波の浸水範囲

・実話のお話

・安政聞録の津波実況図

千國写真館
稲むらの火

いなむらのひ

Counter
「稲むらの火」の地
地図リンク

国指定史跡
 広 村 堤 防
     昭和十三年十二月十四日指定
 広川町は古来より幾度となく津浪に見舞われてきた。
特に宝永四年(一七〇七)安政元年(一八五四)の大津波は、広地区が再起不能といわれたほどの大被害をもたらした。
  特に安政元年の津浪を目のあたりにした浜口梧陵翁は、浜口吉右衛門氏と諮り、中世畠山氏の築いた石堤の後方に高さ五m、根幅二〇m、天幅二m、延長六〇〇mという大防波堤を安政二年(一八五五)二月に着工し、その間三年十ヶ月・工費銀九四貫三四四匁(三五三・七九Kg)の私財を投じ、延人員五六、七三六人を要し安政五年(一八五八)十二月に完成をみた。 この堤防工事で、津波により失職した人々に仕事を与えることができ大いに役立ったのである。 御陵翁の業績に感謝し『ふるさとを大切にし、災害の恐ろしさを知り、おたがいに助け合い』を目的に全国的にもまれな『津浪まつり』を実施している。
 昭和六十一年三月
       広川町・広川町教育委員会    (説明版から)

和歌山県有田郡広川町大字広 【わかやまけん ありだぐん ひろがわちょう おおあざひろ】

法蔵寺・明治の神仏分離令により広八幡神社から移設された鐘楼がある。
避難場所となった「広八幡神社」
パンフ

稲むらの火の館

第十 稲むらの火
「これはたヾ事ではない。」
とつぶやきながら、五兵衛は家から出て來た。今の地震は別に烈しいといふ程のものではなかつた。しかし、長いゆつたりとしたゆれ方と、うなるやうな地鳴りとは、老いた五兵衛に、今まで經験したことのない不氣味なものであつた。    ………… 以下省略 …………
 で始まる尋常小学校の教本にあった、「稲むらの火」の実話の地。
刈り取った稲に火を着け、高台にある家が火事のように見せて、消火に来た村人を津波から救った感動物語です。
  小泉八雲がこの約48年前の話をヒントにして創作した短編「生き神様」を英語版で出版した。大正時代中学向けに、直訳本があった。文部省が小学向けに教材を公募したとき、中井常蔵(つねぞう)が児童向けに翻訳し「燃える稲むら」で応募、入選。
昭和12年から10年間小学国語読本に『稲むらの火』で掲載された。原書は日本の神の仕組み等の説明で細かく長いそうです。短編集の中の一編。読本は文字数が限られる。実話そのものを忠実に描いたものではないと云う。
 実在モデル庄屋五兵衛は濱口梧陵(はまぐち ごりょう)という人、歴史にかかわる偉い人です。本家の養子となり千葉県銚子に移り、醤油醸造業七代目濱口儀兵衛を相続する。(のちに濱口義兵衛商店からヤマサ醤油株式会社となる。)当主は本家(紀州広川)と銚子を行き来する決まり。(醤油発祥の地は広川町の隣、湯浅町) 安政元年11月5日(1854年12月24日)夜、安政南海地震発生時、儀兵衛は紀州にいた。民家は平地にあり、津波が来るのを見、暗くなった為村人を高台に在る広八幡神社に誘導するために藁を燃やし誘導路にした。
   稲むら:刈った稲または稲藁(わら)を積み重ねたもの。【広辞苑】
被災地となった広村に、働く場所として堤防を築く。費用は梧陵さんの持ち出し。

気象庁のHPから
注意! 「津波の前には必ず潮が引く」とは限らない!
「稲むらの火」では、津波の前に潮が引き、海底がみるみる現れてくる光景が印象深く描写されている。全国的に、津波の前には必ず潮が引くと信じている人が極めて多いが、地震の起り方によっては、潮が引かないで急に高い津波が襲うこともあるので注意が必要である。「稲むらの火」を教える方は必ずこの点に注意していただきたい! 逆に、地震を感じなくても、異常な引き潮に気付いた場合には、津波が来ると考えて迅速に避難する必要があることは、「稲むらの火」の教える通りである。