石田三成陣から関ヶ原古戦場方面
蒲生郷舎陣跡
郷舎は左近と共に、三成隊の先陣として終始右翼から奮戦激闘を続けました。そのため、黒田・細川・加藤の隊は容易に笹尾山を攻めることができなかったのです。 しかし西軍劣勢となるや、有楽の降伏勧告に腹を立てた郷舎は、敵中に躍り込みました。その後有楽の家臣に討たれ戦死したとも伝えられています。
関ヶ原町 (説明板から)
石田三成陣跡
ここ笹尾山一帯の石田隊六千余は、正面に竹矢来の柵を二重に配置し、前衛隊長の島左近らの指揮のもと、すさまじい死闘を展開しました。 小早川らの裏切りは、戦況を一変させ、西軍の実践兵力は三万五千前後に激減し、西軍の敗色濃厚となるや、最早これまでと三成は北国街道沿いに敗退していったのです。
関ヶ原町 (説明板から)
島 左近(勝猛)陣跡
三成が家禄の半分を与えてまでも仕官させたといわれる左近です。 前日の杭瀬川の戦で中村隊を破り、本線では石田隊の先手として布陣。黒田・田中らと奮戦後、家康本陣に迫ろうとしましたが、銃弾を受けて討ち死にしたともいいます。
鬼の左近と称され、謎に満ちた猛将像は諸書に様々な姿で描かれています。 関ヶ原町 (説明板から)
徳川家康最後の陣跡
戦がたけなわとなると、家康は本営を桃配山から笹尾山の東南一キロのこの地点に進出させました。
ここで、家康は陣頭指揮に当たるとともに、戦が終わると、部下の取ってきた首を実験しています。
周囲の土塁や中央の高台は、天保十二年(一八四一)に幕府の命により、この地の領主竹中家が築いたものです。
関ヶ原町 (説明板から)
徳川家康最後の陣跡
島 左近陣跡
蒲生郷舎陣跡
石田三成陣跡
笹尾山
決 戦 地
西軍有利な陣形で臨んだ戦いで志多が、小早川と脇坂ら四隊の裏切りは、たちまちにして戦況を一変させました。
小早川勢の大谷隊への突入と同時に、西軍の配色が濃くなり、各軍の兵士の浮き足立つ中、石田隊は集中攻撃を受けながらも、最後まで頑強に戦いました。笹尾山を前にしたこの辺りは、最後の激戦のあった所です。
関ヶ原町 (説明坂から)
岐阜県不破郡関ヶ原町大字関ケ原【ぎふけん ふわぐん せきがはらちょう おおあざ せきがはら】