福島正則陣跡
東軍の先鋒となった福島正則(約六千人)は、ここで南天満山の宇喜多隊と対陣しています。一番鉄砲の功名を井伊隊に横取りされるや、正則自ら鉄砲隊を指揮して、宇喜多隊に一斉射撃を浴びせるなか、一進一退の攻防戦が続きました。
首取りで手柄を立てた可児才蔵が、家康の称賛を受けたとされています。 関ヶ原町 (説明板から)
宇喜多秀家陣跡
西軍副大将の秀家は、ー万七干の兵を配して中山道をおさえました。 午前八時頃東軍福島勢の猛攻から戦いは始まり、秀家の前衛明石全登の隊との激突となりました。宮本武蔵が奮戦したのもこの辺りといわれています。 秀家は敗走中池田郡白樫村の矢野五右衛門に助けられ、その後八丈島へ流され、八十三才まで生き延びています。 関ヶ原町 (説明版から)
島津義弘(惟新)陣跡
戦国の雄・島津軍団千人を率いた義弘は、北国街道を押さえるため、ここ小池村に陣を構えました。 西軍がことごとく敗退する中出、「西軍に島津あり」の勇姿を家康に見せつけるため、義弘は最後の賭けに出たのです。「背進」を最強の武器に変えたその決断こそ、現代にまで語りつがれる「敵中突破」なのです。 関ヶ原町 (説明坂から)
小西行長陣跡
小西行長は、ここ北天満山に六千余の兵を率いて参戦しました。
午前八時後呂、戦闘開始の狼煙をあげ、味方に合図をすると共に、西軍主力の一つとして勇戦しています。 しかし小早川らの裏切りの衝撃は小西隊の混乱を招き、それに乗じた本多隊の襲撃で、兵士たちが敗退しはじめたのは午後一時過ぎのことでした。 関ヶ原町 (説明坂から)
開 戦 地
慶長五年九月十五日、霧が薄くなり視界も広がった午前八時。先鋒の福島政則は井伊隊の旗の動くのを見て、先陣の手柄を取られて成毛野花と、宇喜多隊に一斉射撃を浴びせました。
一方井伊隊も福島隊に遅れまいと、島津隊に向かって攻撃を開始し、合戦の火蓋が切って落とされた所です。(標柱の位置は北寄りに移動)
関ヶ原町 (説明坂から)
岐阜県不破郡関ヶ原町大字関ケ原【ぎふけん ふわぐん せきがはらちょう おおあざ せきがはら】