乗組員の職種
  江戸時代には一般の水夫を水主といい、船の最 高支配者は船頭といった。
○船頭‥‥北前船では商人的なオ覚も必要とした。  船主が船頭を兼ねる自乗船頭と傭船頭の別がある。
○表‥‥‥船の航行にあたる。絵馬では積荷の上にい る。
○片表‥‥表の補佐役
○知工‥‥船の庶務会計にあたる、現在の事務長。
○親仁(親父)‥水主の現‐の指揮者、経験のある年長者。
○若衆‥‥一般の水主。
○炊あがり‥‥炊を終った人。
○炊‥‥ご飯をたき料理や雑用にあたる最も年少の者
 給与‥‥年間給料は船頭2〜3両、役付1両2歩か3歩、若衆は1両か1両1歩、炊は二歩(半両)である。その代りに船頭は積荷の10分の1の荷物をつみこむ特権(帆待ち)があり、水主は全体の1割程度の「切出し」を全員で分けた。(説明板から)

 橋立町は、江戸時代から明治時代にかけて北海道と大阪を結ぶ西廻り航路に就航した北前前の本拠地として栄え、当時の海上輸送の大動脈を日本海側に生み出し、全国経済の一翼を担った船主、船乗りが数多く住んでいたところです。
 寛政8年(1796年)の「前選定法之記」には、実に30数名もの船主が名を連ねており、最盛期には北前船の数も100隻を越え、藩政期には大聖寺藩の財政を助けるなど当時の北前船主の隆盛が偲ばれます。
 今でも船主邸、船乗り邸など当時の北前船主の豪壮な生活を偲ばせる歴史的資産が数多く残り、歴史的町並みや文化を伝える町です。
 平成8年度より、歴史的建造物を保存する為、景観整備事業に取り組んでいます。(説明板から)

千國写真館

加賀市と北前船
 加賀市には橋立、塩屋、瀬越と北前船の三基地がある。塩屋は大聖寺藩の年貢米の積出港、瀬越は大聖寺川を上下する荷物の税をとる亭彦八がいた。橋立は元禄八年(1695)に船番所が置かれ、享保三年(1718)には松前稼ぎで漁業がおとろえる程になった。
大聖寺藩主の初代利治、二代利明は敦賀商人高島屋徳右衛門や道川三郎左衛門に年貢米を処理させていたが、西廻り航路の安定から北前船が繁栄するようになり、塩屋の外に橋立も必要になったのである。    藩では北前船主たちを優遇して十村格に任用したが、中には角谷、梶谷のように全く武士に変身した者もいる。その反面、財政整理や国防強化には常に多額の献金を彼等から受け取った。明治以降も加賀市の経済や金融は、北前船のもたらした富力によるところが実に大きい。八十四銀行、大聖寺川水力発電KKはその好例である。(説明板から)

北前船の里

きたまえぶねのさと

Counter
北前船

北前船と船だんす
 北前船の船頭が、お金や船往来、その他の重要書類や衣裳類を入れるに用いたのが船だんすである。その逸品は酒田、小木(佐渡)、三国等の日本忌詞で多く作られた。
 外側はケヤキで内部はキリ材を用い、海難で忌に投出しても水が入らぬよう精密に造られている。また外側には細い鉄板を幾箭もかけ、盗難に備え鍵を多<し、かくし引出しを造る。正面の扉には芸術的な透かし彫りの金具を着け、家紋を打ちぬいたものもある。値段も良品は高く、慶応2年(1866)佐渡小木で11両3歩もした。(説明板から)

地図リンク

北前船の残したもの
●藩政のドル箱…弘化の財政改革、嘉永の黒船来航時の海岸防備、
  その他の献金。
●明治以後の経済活動
 八十四銀行(久保彦兵衛)函館銀行(平出喜三郎、西出孫左エ門)
  三十四銀行(広海二三郎)米谷銀行(米谷半平)
 日本火災海上保険(広海、西谷、大家、久保、浜中)
 日魯漁業(平出、西出、久保)大阪ガス(大家七平)
 千島汽船(田端半七)北陸セメント函村忠右ェ門)
●明治以後の文化活動
 第四高等学校、大聖寺中学校、江沼郡立病院(現公立加賀中央病院)   の創立に協力。
 西出朝風(□語短歌の創始者)昭和18年没
 西出大三(キリ金細工の無形文化財)在東京
  木村素衛 (西田哲学を教育学の基礎とする)
        京都大学教授昭和21年没
 木村有香(世界の柳博士、天皇陛下に御進講)
                  東北大学名誉教授
●最大の遺産…困難をおそれず積極敢為の北前魂の育成。
(説明板から)

奇 石(きせき)
船乗りは気象の変化を早く知り海難に備える工夫をした。この石は、雨風の強くなる前に、その表面が濡れてくるといわれ、天気予知の奇石として尊崇されていた。
     寄託宮本克比古氏 (説明板から)

北前船とは
 江戸時代の後半から明治中期にかけて、大阪と北海道を往復した日本海側の不定期の廻船(商船)である。  その航路は日本海から瀬戸内を通る西廻りが主であるが、時には奥羽の太平洋岸をへて江戸に入る東廻りもあった。 古代から北陸以北の貢物は海上を敦賀に送り、琵琶湖を渡って京都に入るのが正式ルートだつたが、近世の経済発展により寛永16年(1639)加賀の前田利常が始めて下関廻りで大坂に廻米し、幕府も寛文12年(1672)河村瑞賢を用いて酒田〜大坂の西廻航路を開拓した。   他方中世から開けていた敦賀・小浜と蝦夷地(北海道)の交流は、17世紀に近江商人が松前氏と結んで盛大となった。越前、加賀、能登の船乗りは近江商人の船に用いられ、やがて自立して大坂〜蝦夷地を結ぶ廻船を経営する。自立の時期は18世紀前半で同後半には近江商人に船を貸している。その商法は買い積みで、各地で商売しながら航海するので利益は大きかったが、一度難船すれば損害も大きかった。船は日本型の一枚帆に始まり、明治初期には西洋型も用いられた。(説明板から)

北前船の主要寄港地

石川県加賀市橋立町【いしかわけん かがし はしたてまち】

海 図
大きな錨
和磁石
遠眼鏡と折りたたみ式燭台