国見峠
↑鉈ヶ岩屋 急坂です。 上って、下る
教如上人御旧跡
蛇ケ岩屋(なたがいわや)
東本願寺開基 教如上人 ゆかりの地かすが慶長五年(一六〇〇)八月、関ヶ原合戦直前、本願寺の教如上人はかんとうからご帰洛の道すがら、西軍石田三成の配下に襲撃されました。僧俗に護られて羽島の西方寺→安八の光顕寺→大垣の専勝寺→草道島の西円寺へ避難されました。上人の危機を伝え聞いた春日谷の信徒、屈強な者二十七人が顔に鍋墨を塗り、ボロを着て、竹槍や斧、鎌などを手に必死の形相で西円寺に向かいました。
西円寺住職は上人と瓜二つの似顔だったので、上人の衣を纏い、上人の身替わりとして駕籠にて表門より中山道を西へ向かいました。時を同じくして、裏門からは野良着の上人が春日谷の信徒に護られ秘かに出発。片山の善性寺→般若畑の西法寺から夕闇迫る春日谷へ進まれました。
一方、西円寺住職は関ヶ原で襲撃され死亡。首を検分、三成は、偽者と見破り春日谷へ追撃をめいじました。 上人一行は下ヶ流の遍光寺、上ヶ流の寂静寺、香六の明随寺、寺本の閑窓寺、中瀬の長光寺、安土の発心寺、中郷の西蔵寺、尾西の法性寺が点在する春日谷の悪路をこの鉈ヶ岩屋を目指されました。当時、岩屋への道は無く、険しい山中を藪を掻き分けて、上人はご苦労されましたが、二十七人の手助けによりやっとの思いで辿り着かれました。
高貴な上人にとって岩屋での生活はご不便でした。しかし、信徒が運ぶ粗食に感謝の日々を過ごされました。慶長五年九月十五日、関ヶ原合戦で東軍勝利の報に上人は岩屋を出られ国見峠よりご帰洛されました。同七年、徳川家康より地を得て東本願寺を建立され、開基、浄土真宗第十二世となられました。
同十一年、上人は再び春日谷にお越しになり西蔵寺の池を鏡に自画像を描かれ、春日谷八ヵ寺の僧俗に下賜されました。この寿像は国宝級とされ八ヵ寺の宝物となっています。八ヵ寺の輪番で営まれる毎月の五日講の内、一月、七月、十月の大寄りのみ、本物の寿像を、他の月は別の寿像を掲げてお参りしています。又、当村には古くから顕教踊りが伝えられ、村の文化財となっています。
春日村顕教踊り保存会
春日村八ヵ寺・春日村
(説明板から)
なたがいわや
きょうにょ
しょうにん
両方のルートを行きましたが、どちらも急でキツイです。完全なる登山道です。整備は??。行くのはおやめなさい。
国見峠
国見とは太古の謎を偲ばせる言葉である。この峠は近江と美濃を結ぶ歴史の間道であり、塩と絹の道として往来する村人の暮らしの道であった。教如上人をかくまった蛇が岩屋は峠にも近く、落ちのびた武将や子女の哀史は尽きない。また明治、大正期には伊吹の野麦峠でもあったのである。宮本武蔵が駆け抜けた峠、伴団右ヱ門の大滝、炭山村跡、さざれ石の伝説もある。峠を下れば寝仏、尻まくり地蔵が訪れる人々に歴史の歳月を語りかける。(説明版から)
国見峠の紅葉
岐阜県揖斐郡揖斐川町春日美束 【ぎふけん いびぐん いびがわちょう かすがみつか】
↑鉈ヶ岩屋 急坂です
教如上人 御C水潤いの泉
時は戦国一六〇〇(慶長五)年八月下旬教如上人(四三歳、後の東本願寺初代法主)は帰洛の途中、美濃の国まで来られた時、関ヶ原合戦で陣地を構える石田三成の追手にあい宮地村(池田町)市場村(揖斐川町)を経て、この地に来られました。これより先は道も狭く馬では行けないので馬から下り、わらじをぬぎ路傍の石に右足を下ろされた時、その石に足の跡がはっきりと残り(現在、下ケ流遍光寺に御足跡石と言い伝えられ保存)この地の御C水で心を潤され春日の各寺院を廻り美束の蛇ケ岩屋におかくれになり、難を逃れられました。また、古ケ池に住む大蛇に飼犬を呑まれて怒った白樫の岩本兵衛という漁師が大蛇を撃ったところ、大蛇は樫原谷を逃げまわり頭は滝谷で尾はこの地に垂れ下がっていたので、「尾蛇れ」という言い伝えもあります。教如上人御休みの場で一服し潤いの御C水をいただくと身も心も潤い上人のお加護を受けられることでしょう。(説明板から)
心の灯「教如上人と春日村」
教如上人は、浄土真宗開祖の親鷲聖人から十一代目門主として、大阪石山本願寺に一五五八年(永録元年)お生まれになりました。 時は戦国時代、上人の生涯もいやおうなしにこの下剋上の争いに巻きこまれました。豊臣秀吉に上人が閉門されたときは、春日村の信徒が閉門を打ち破り上人を救おうと駆けつけて牢に入れられたりしました。 その後
、一六〇〇年(慶長五年)天下が東軍と西軍に分かれて関ケ原の戦いが起ったとき教如上人はかねて親しかった東軍の徳川家康を訪れます。そのために、上人は西軍から命をねらわれることになります。この時、春日村からは二十七名の強い男が選ばれて、大垣市の西円寺にかくまわれている上人を無事救出し、春日谷へお迎えしました。それを知った石田三成の西軍が追手を差し向けたので、春日の寺々に滞在された上人に危険が迫り、村人はついに上人を国見峠近くの蛇ケ岩屋へお隠ししました。 やがて、家康の世になると上人は、峠を越えて京都へ帰られ、東本願寺を建てられます。上人は春日の人たちの決死の心を偲ばれて、自画像を形見として春日へ下さいました。 現在もこの自画像は村文化財として大切に保存され、村人たちは上人の説かれた仏の道を「心の灯」として、毎月五日には村内のどこかの寺で「五日講」という法要を勤めます。その席で教如上人の好物だったお酒や大豆を煮た教如豆が参拝者にふるまわれて、仏の教えに耳を傾けます。また、蛇ケ岩は「教如岩」といわれて、村人に語り継がれています。(説明板から)
うるおいの いずみ
教如上人 御清水 潤いの泉
岐阜県揖斐郡揖斐川町春日小宮神 【ぎふけん いびぐん いびがわちょう かすがこみやかみ】
岐阜県揖斐郡揖斐川町春日六合 【ぎふけん いびぐん いびがわちょう かすがろくごう】