安宅之関
千國写真館

あたかのせき

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安宅ノ関

尼御前 像
尼御前には、次のような伝説があります。
その書、源義経主従が都から逃れて陸奥の国へ向かう途中、この地まで来ましたが従者の中にいた一人の尼が、この先の(歌舞伎「勧進帳」で有名な)安宅の関の取り締まりが厳しいことを聞き及び、主君の足出まといになることを憂えて深く意を決し、主君の無事を祈ってこの岩頭から身を授じました。
この尼の名が尼御前といい、それ以来いつしかこの岬を尼御前岬と呼ぶようになったということです。
平成九年十一月吉日 (説明板から)

尼御前岬

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加賀ノ國 安宅之関鎮座
安宅住吉神社
霊峰白山を東に荒海日水海を西に源平古戦場の梯川を眼下に見下す景勝の地にまします。安宅住吉神社は遠く奈良時代仁創祀され北陸道往来の人士の必ず詣でた古社であって境内には勧進帳で名高い安宅ノ関址がある住吉の神はあらたか月まゐりと謳はれ安宅の住吉さんとして親しまれ人生に於ける道先案内の神 開運厄除交通安全縁結びの神また難関突破の霊神として昔から多くの人々に深く信仰されている。縁ありて社頭に詣づる人誠を込めて神前に祈りを捧げばその祈りは必ずや成就されん
            宮司誠 (説明版から)

武蔵坊弁慶(幼名鬼若丸)の像
京都比叡山の仏僧であったが、幼少の源義経(牛若丸)に心服して以来、義経に仕え怪力無双の武名を挙げる。平家滅亡の後、義経ぱ兄頼朝に追われ北陸路を流浪するが、弁慶は忠実に随行する。当所「安宅の関」では智力を尽くし主君ぞ守り、後に奥州での戦いでは主君の盾となリ衣川舘の前で立ち往生を遂げたと伝えられる。
  西暦 千百八十九年没 (説明版から)

安宅関所:義経を捕らえる為に作られた関所。ただ一度だけ使われたと云う。約800年前、周辺は湿地帯で通れるのはここだけ。昔から安宅住吉神社の地。

銅像の由来
弁慶・富樫の銅像は歌舞伎で有名な七代目松本幸四郎・二代目市川左団次をモデルとして昭和四十一年彫塑家の都賀田勇馬氏により制作されたものである。左端の義経像はその子息都賀田伯馬氏が平成七年十月制作した。ここに親子二代の亘り勧進帳の主役三体の像を完成させとものであります。
石碑に刻まれた智・仁・勇の文字は永井柳太郎氏の自筆で、智は弁慶の知恵、仁は富樫の情け、勇は義経の勇気であり我国古来の国民性の美しさを端的に表現している言葉である。
     平成七年十月吉日
   財団法人 安宅観光協会 (説明版から)

石川県小松市安宅町 【いしかわけん こまつし あたかまち】

石川県加賀市美岬町 【いしかわけん かがし みさきまち】

安宅由来記(かすれて読めん)
富樫弁慶像の由来(かすれて読めん)

(あまごぜんみさき)

安宅の関案内絵図