ながはまじょう
長浜城跡
長浜はもと今浜といい、「バサラ大名」として有名な京極道誉(佐々木高氏)が室町時代の初め頃に出城を築き、それが長浜城の元と伝えられる。以後、家臣の今浜氏・上坂氏が守将として在城したといわれている。
姉川合戦の後、その功によって湖北三郡を与えられた羽柴秀吉は天正二年(一五七四)頃小谷(湖北町)から当地に城下町を移し、地名を長浜と改め、ここに城を築いて数年間居城とした。天正十一年(一五八三)の賤ヶ岳の戦では、ここを根拠地として大勝し、織田信長後継者としての立場を確立した。秀吉の家臣である山内一豊も天正十三年(一五八五)から五年間在城したことがある。
江戸時代になって、慶長十一年(一六〇六)には徳川家康の家臣である内藤信成が入城し、その子信正が摂津高槻に移るに至って廃城(元和元年・一六一五)となった。
建物及び石垣の大半は、彦根城の築城に際して移され、その天秤櫓(国・重文)や三重の隅櫓は当城の遺構といわれている。また、当市内の大通寺台所門(市指定建造物)、知善院表門(市指定建造物)
も当城の遺構として名高い。この豊公園は「本丸」という小字名でよぱれ、城域の中心部にあたるところから貴重な史跡として昭和三十七年に市の指定文化財として指定されている。
城跡の遺構は、これまでの発掘調査によって石垣や堀立柱建物趾礎石建物跡さらには舟着場らしき石組遺構等が一部発見されている。しかし、調査は部分的であり、全体の縄張りや細部の構造については、未だ解明されていない。(説明板から)
滋賀県長浜市公園町 【しがけん ながはまし こうえんちょう】