そうぎすい
宗祇水の由来
室町後期の文明年間(一四六九〜八七)郡上八幡を納めていたのは東常縁でした。常縁は藤原定家・俊成に始まる二条家歌道の流れを正当に継ぐすぐれた歌人で、古今伝授(和歌の解釈や真髄、作歌の秘奥を伝授)する資格を持っていました。
その名声を慕って、「新選莵玖集」を編んだ連歌の飯尾宗祇がはるばると訪ね来たので、ついに古今伝授を受けました。
二人は文明三年(一四七一)桜の木の下にこんこんと湧き出るこの清泉のほとりで別れを惜しんだと言います。東常縁は次の一首を宗祇に託しました。
もみじはの流る、龍田白雲の花のみよしの思い忘るな 密かに作歌の極意を読み込んだ歌だと言われています。こうした故事から寛文年中(一六六一〜七三)時の領主・遠藤常友はこの湧水を「白雲水」と名付けました。
貞享元年(一六八四)、松尾芭蕉が編んだ俳諧七部集の内「冬の日」「木枯の巻」には、次の句があります。
ぬす人の記念の松は吹きをれて 芭蕉
しばし宗祇の名を付けし水
杜国
笠ぬぎて無理にもむるる北時雨 荷今
このことから、その当時「宗祇水」の名もかなり全国に知れわたっていたようです。この辺りには宗祇岩、宗祇桜、宗祇屋敷など宗祇にちなむものもたくさんありました。
その後寛保二年(一七四二)城主・金森頼錦は幕府の儒学者・林大学頭信充に碑文を得て「白雲水」の碑を建立しました。次の五言絶句が碑に刻まれています。
千代白雲水 長流自冽清 歌成如有意 即是古今名さらには頼錦は京都の公家・烏丸光栄に依頼して白雲水に関した歌を集め、「白雲集」を編み、当時慈恩寺に納めました。
また文化十一年に来町、この近くに仮寓した漢詩人・ 頼山陽は「以白雲水書之」として詩、数編を残しております。
昭和四十七年(一九七二)、四十九年にはそれぞれ町、県史跡文化財に、六十年(一九八五)には、環境庁の第一回名水百選に指定されました。(説明板から)
環境庁の第一回名水百選に指定
水源
飲料水
米等洗場
野菜等洗場
さらし場(桶等つけおく)
岐阜県郡上市八幡町本町 【ぎふけん ぐじょうし はちまんちょう ほんまち】