山内一豊の妻 見性院御由緒
一六〇一年、土佐藩祖、山内一豊の妻見性院は、古来内助の功を以って知られたる賢婦人であったが、生誕地は当時の戦乱等の為不明のままになっていた。
此の度、当郡上八幡町の慈恩寺を始め各地から収集されている「東氏、遠藤氏系図」等には何れも初代八幡城主遠藤盛数の女[むすめ]で、遠藤慶隆、慶胤の妹を以て山内対馬守一豊室と記されている。其の内特に注目すべきものは土佐藩伝来の古文書である。
「御侍中先祖書譜牒」(高知県立図書館蔵)の中から発見されている。それは遠藤盛数の子慶胤の末子三十朗の子孫が代々土佐藩庁へ提出し慎重に審査され受理されている系図である。以下略記すれば、
桓武天皇末流、千葉介常胤六男、東六朗大夫胤頼十一代孫、六郎左衛門尉盛数男、美濃国郡上之城主遠藤但馬守慶隆弟、助次郎慶胤男六郎左衛門尉盛数女、慶隆、慶胤妹は山内対馬守一豊公御室と家系に有之祖先遠藤安右衛門亮胤、本國美濃遠藤助次郎慶胤倅とあり。
前記「東氏、遠藤氏系図」ほか関係古文書の記述と一致したので一豊の妻は郡上出身である事が確実となり、此処に有志並びに賛同相寄り一豊の妻の生地に其の像を建立し、永く霊を追慕し併せて崇なる婦徳を顕彰するものである。
       高地女子大学名誉教授      丸山和雄
       顕彰会長                        川上興三吉 (説明版から)

人柱およし伝説
江戸時代のはじめ、八幡城が修理されることになりました。工事が始められましたが、一番大切な柱がうまく立たず、城は完成の目途すらたちません。とうとう人柱をすることになりました。「およし」という美しい娘が人柱に選ばれ、城の下に埋められたといいます。長い年月が経ち、石垣からおよしの泣き声が聞こえるようになり、哀れに思った善光寺様が供養を行い、祠をまつったと伝えられています。(説明板から)

千國写真館
郡上八幡城

ぐじょう
はちまんじょう

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郡上八幡城

八幡城の沿革
  永禄2年(一五五九)遠藤盛数が東殿山(市街地南方)の東家を滅し八幡城を築いたのがこの城の創始である。後、秀吉が天下を統一し、領地二万石を没収せられて加茂郡小原に転封され稲葉右京亮貞通が城主となり城郭を修築して天守台を設けた。やがて関ヶ原合戦が起こると遠藤慶隆は家康に味方し、慶長五年(一六〇〇)再び遠藤氏が城主となった。
   元禄五年(一六九二)遠藤氏後嗣なく没収せられ常陸より井上正住が城主(四万石)となって来封したが間もなく同十一年金森頼錦の晩年になって失政のため農民困窮甚しく、ついに金森騒動宝暦義民の一揆が起り、そのため一家は断絶され、同年丹後国宮津の城主青山幸道が代って郡上藩主となり八幡城下四万八千石を領することになった。その後藩政よく治って、その後明治維新によって廃城となり、昭和八年旧跡に模擬天守閣が作られたのである。(説明板から)

地図リンク

力  石
この二っの石は、寛文七年(一六六七)城主遠藤常友が城を修理するため領内から多数の人夫を集めたとき、その中のー人である大和町の作兵衛(通称、赤髭)が城下の河原がら背負ってこの地まで運び上げたものである。(重さ約三五〇キロ・長さ約一メートル・厚さ約三〇センチ)奉行の村上貞右衛門がその力量のすぐれているのをみて激賞すると彼は感涙し、たちまち力尽きてその場で卒倒し息絶えてしまった。
 奉行は憐れに思ってこの石の使用を禁じたが、昭和八年(一九三三)に天守閣を建設する際この石が草の中に捨てられ
ているのをみた古川七兵衛氏が作兵衛の心根が世に忘れられたのを嘆き、この地に碑として安置して顕彰しその礎石にことのあらましを記したものである。(説明板から)

岐阜県郡上市八幡町柳町 【ぎふけん ぐじょうし はちまんちょう やなぎまち】

別名:積翠城
木造再建城としては
日本最古。山城