花の窟神社
 熊野市は、神話や伝説が豊寓なところで、その代表的なものがここ「花の窟」である。「日本書紀」によると、皇室の祖先とされる女神天照大神の母神である伊弉冉尊(イザナミノミコト)は、火の神・軻遇突智(カグツチ)神を産んだとき、火傷を負って死に、この地に葬られた。尊の魂を祀るため、土地の人々は花が咲く季節に花を飾り、のぽりや幡旗を立て、笛太鼓を鳴し、歌い踊って祭を行うとされている。このことから「花の窟」とりう名前がついた。 熊野三山の中心である本宮大社は、主神が伊弊再尊の子の家津御子(カツミコ)神であるため、今も花を飾って祭が始まる。このことからもわかるように「花の窟」は熊野三山の根源ともされ、わが国の古代信仰の重要な意昧を持った場所なのである。 (説明板から)

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この花の窟には社殿はなく、高さ約45mの巨巌そのものを御神体としている。自然崇拝の太古からの遺風を残すとともに、熊野の神様としてあがめられてきた。御神体の巨巌の直下に立つと身の引き締まる思いがする。  祭神は伊弉冉尊(イザナミノミコト)は、火の神・軻遇突(カグツチ)神ある。毎年2月2日と10月2日には、祭典の主要神事である「お 輝かけ神事」が行なわれる。お綱かけは、わら縄で編んだ110尋(約180m)の大綱に季節の花、扇 を幽付け巌のkから引き延ばして松の大樹の梢に引き渡し、境内南隅の松の根元に結びつける。  日本書紀神代の巻一刻こいざなみのみこと、火神を生むときに、灼かれて抑退左りましぬ、蔵、 駒尹雨の熊野の有馬村に葬りまつるパで鼠此の神の盲を祭るには、花の時には赤花を以て祭る、 又鼓吹幡旗を用て、歌ひ舞ひて祭る。」と,記されている。  花の窟jの名を初めて世に紹介したのは、平安中期の有名な修行僧である増基法師である、その紀行丈rいほぬしJには、見ればヽやがて岩屋の山なる中をうがちて、鉦を4め奉りたるなりけり。「これは祢紅{ムの出給はん世に`取り出で奉らんとする経なり。天人常に降りて供養し奉る」といふ。げに見奉れば、 この世に似たる所にもあらず。‥・傍らに王子の岩屋といふあり。‥・と花の窟を述べている。 (説明板から)

お綱掛け神事  (三重県指定無形民俗文化財)
 『日本書紀』に記たれていることが今に引き継がれ、2月2日と10月2日には多くの人々が集まり「お綱掛け神事」が行われる。綱は藁縄7本を束ねた物で、花をつけた3つの縄旗が吊るされている。この縄旗は朝廷から毎年奉納された錦の旗であったが、洪水で旗を積んだ舟が難破したため、縄でその形を模したのが始まりといわれている。 (説明板から)

丸石に神様が鎮まっているという丸石神仰が伝わっている。

参道入口

御祭神- 軻遇突智尊(カグツチノミコト)

千國写真館
花の巖
御祭神 - 伊弉冊尊(イザナミノミコト)

はなのいわや
じんじゃ

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花の窟神社

参 道

三重県熊野市有馬町 【みえけん くまのし ありまちょう】

巨岩が花窟の御神体