ふじはしじょう
藤橋城の歴史
「美濃城砦群考」によれぼ、揖斐川流域地区は、中世から近世にかけて夥しい数の城館、城砦が構築された一つである。 当藤橋城郭は、中世城郭として南北朝時代に杉原砦として築城されたもので、今から約六〇〇年の昔、越前に勢力を奮った南朝方の雄、新田義貞が、北朝方に組した美濃の土岐氏に対抗する最前線の砦として配置したものと思料される。 人工の築城技術かまだ充分発達しない時でもあり、然も防禦態勢の整備に緊急を要する場合、天然の要害に簡単な人工を加えることが、最も時宣に適した築城策であった。時の流れに従った改廃、再築が繰り返されたものと思われる。当地域は上下流が侠く、眺望も極めて良好で戦略戦街上、杉原砦の所在は明らかであるが、その位置までは詳らかでない。後年、「美濃諸旧記」巻之十一城主所主諸士伝記によれば「大野郡杉原の住人に杉原六郎左衛門家盛」とある。この家盛の家系から、木下藤吉朗秀吉の正室ねねが出ており、高台院ゆかりの地でもある。戦国時代を通じて、美濃と越前、美濃と近江を結ぶ戦略上の一拠点となったことは明白であり、藤橋城は、この歴史・文化を基調に藤橋地域再興を願って建造したものである。(説明板から)
岐阜県揖斐郡揖斐川町鶴見【ぎふけん いびぐん いびがわちょう つるみ】