妻 籠 宿
宿は室町時代末期には、すでに宿場として成立していたと考えられ、慶長七年(一六〇二)幕府が中山道に六十七宿を定めたとき、妻籠もその一っとなった。 保存地区は東西約三・八キロメートル、南北約五・五キロメートル、面積約一二四五・四ヘクタールで地区内に二三三棟の伝統的建造物があり、地域的に宿場、寺下、在郷の三地区に分けられる。宿場は、上、中、下町を中心とし、本陣、脇本陣、間屋がおかれた。建物は出梁により二階を張り出した切妻造平入が特徴で、江戸時代末期から明治にかけて再建されたものが多く、大規模な建物が多い。寺下は光徳寺の門前町の形態となし一般に間口が狭く建物は小規模である。在郷には旧中山道に面した町家風の建物と附近に点在する農家がある。妻籠宿では、昭和四十三年から町並保存事業が行われ、五十三棟の復原を完了し、今後長期にわたり整備を行う予定である。宿場保存の中心は住民の総意で宣言した『妻籠宿を守る住民憲章』といえよう。
昭和五十二年三月 文部省 南木曾町 (説明板から)
長野県木曽郡南木曽町吾妻【ながのけん きそぐん なぎそまち あづま】
なかせんどう
つまご しゅく