御 殿 桜
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群馬県沼田市西倉内町【ぐんまけん ぬまたし にしくらうちまち】

御殿桜:花が小さく、白く、逆光でイマイチです。ライトアップで花が見えました。開花状況:満開
鐘楼
御殿桜
御殿桜二世
御殿桜
千國写真館

ぬまたじょうし
ごてんざくら

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沼田城址
沼田城址御殿桜
沼田城址西櫓台の石垣・石段

 沼田城御殿桜(樹齢推定400余年)
沼田城の天守閣か、5層の雄姿を誇っていたところに植えられ、今に残っている沼田城形見の名木てある。   
沼田城は初め蔵内城と称した。約440年前、沼田氏12代の沼田万鬼斎顕泰が、3ケ年かかって天文元年(1532年)4月完成させ、柳町の幕岩城から引移った。顕泰は三男朝憲に13代城主を譲り、川場村天神城に隠居したが、後妻の子4男平ハ郎景義を城主にせんと企て、永禄12年(1569年)正月、朝憲を謀殺、ために沼田氏は築城後37年間にて亡びた。以来沼田城は上杉謙信、北条氏政、武田勝頼、織田信長、真田昌幸、北条氏直の支配時代を経て、天正I8年(1590年)真田信幸が城主となった。信幸の夫人は徳川家康の曽孫=養女=小松姫である。信幸は関ケ原戦に徳川方につき、戦功により父昌幸の所領上田城主を兼ねたが、慶長9年(1604年)この御殿桜の処に3階建の隅櫓(水の手曲輪門)を築造。ついて慶長12年(1607年)今の利根英霊殿の処に5層の天守閣を築造(間口1O間奥行9間)本丸の外郭に土塀を築くなど、名城を完成させた。それから77年後の天和元年(1681年)11月、5代城主信直が徳川幕府に沼田領3万石を没収され、城郭は跡形もなく取壊された。名城は姿を消したが、この御殿桜は400年の風雪に耐え、根は古塁の石垣をしっかり抱き、春ごとに寂寥の色をたたえた花を開き、興亡の歴史を語りつづけている。
   (岸 大洞 文選) (説明板から)