千國写真館
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袋池から望む

熊本県天草郡苓北町富岡 【くまもとけん あまくさぐん れいほくまち とみおか】

天草四郎時貞の一揆軍が三回攻撃したが攻め落とせず、天草四郎はここから島原へ渡った。

『天草の恩人』
左:鈴木重成(初代代官)
右:鈴木正三(重成の兄)
『日本の恩人』
左:勝 海舟(安政3年、伝習生の時来航、翌年再訪)
右:頼 山陽(「日本外史」の著者、文政元年来訪)

  富岡城ニの丸石垣
 天草は、慶表五年(1600年)関ヶ原の戦いの後、唐津の寺沢広高の領地となりました。寺沢氏は天草統治のため慶表七年(1602年)から富岡残を築きました。
寺沢氏の文配時代の寛永十七年(1637年)に天草・島原の乱が勃発し、富岡残は一揆軍から攻撃を受けましたが、寺沢氏の必死の守りによって落城はまぬがれました。 天草・島原の乱後、山崎家治の領地となりました。この時、幕府は資金を与えて富岡残の修後を命じ、約三年をかけて新たに大手門や百間土手を築き大修復を行いました。
 その後、鈴木代官の天領時代を経て、戸田忠昌文配の寛文十年(1670年)に、当地に城は必要ないということで富岡残は破残されました。 町では、富岡残の復元整備の際、面側の石垣部分で三重の石垣が発掘され、寺沢氏、山崎氏の築いた石垣を確認しました。 一番奥の石垣が寺沢氏の築いた石垣で、一揆車との攻防戦の跡が石垣表面に残っております。 二番目の石垣は、この石垣を隠すために急造されたものらしく、途中で壊れたと考えられます。 手前の石垣は、天草・島原の乱後の領主である山崎氏が城の修復を行った際に築いたものです。 このように、富岡城の石垣は三重の構造となっており、その時代の歴史を垣間見ることができる大変貴重なものです。
 苓 北 町  苓北町教育委員会(説明板から)

天草回天之碑

出丸から

肥前天草富岡城図

二の丸から

天草 富岡城
肥前甘草富岡城

ひぜん
あまくさ
とみおかじょう