黒部の洞窟
松下家
黒部の洞窟 黒部銑次郎の塩泉採掘横穴跡 黒部銑次郎1846〜1912年
大鹿村塩(かしお)地区に湧き出でる塩泉は、伝説によれぱ建御名方命(たてみなかたのみこと)、あるいは弘法大師の発見と伝えられており、かなり古くからこの塩が大鹿村民に利用されてきたと考えられます。興国年間に宗良親王(むねながしんのう)が大鹿村大河原に在住されし当時、この塩水を山越しに運んだとされており、今もこの道には「越路」という名が残っています。明治時代になり、阿波徳島藩士・黒部銑次郎は岩塩を求めてこの鹿塩地区へ入り、同九年に私財を投資して探掘を始めましたが、その努力むなしく岩塩は発見されませんでした。(現在では日本列島に岩塩はないとされています)この洞窟は黒部が最初に採掘をした横穴の跡で、岩塩の発掘はおろか大水による災害を引き起こしたとされています。夢をはたせなかった黒部は翌十年、大規模な製塩場を開設して食塩を作り出し、さらLこ同二十四年鉱泉浴場の営業を申請し、これが今日の鹿塩温泉の始まりとなりました。
(説明板から)
大河原城跡
宗良親王関係史跡 大河原城跡
大河原城は南北朝時代、大河原、鹿塩大草を領有した香坂高宗の居城であり高宗尽忠の拠点である。
城の要害は南・東の方面は断崖を北西の平地は空堀をもつてしたのである。興国五年、宗良親王御入信となるや、南朝方は計らうて要害の地大河原を御在住地と定めた。よって高宗は大河原城を本拠地として諸城砦を築き親王を迎えて守護したがなおも親王の安否を気遣いて、更に釜沢の奥に住所を移し、以て東国南朝方の策源地とし、内にあっては山中の御籠居を慰め奉り、出ては親王に従って各地に転戦した。武運拙く南朝方衰退すると誰も高宗は親王に終始忠誠を尽くした。大河原城は高宗没後の興亡は定かではないが六百数十年余を経た今日はなおその面影を留め、当時を物語っている。本郭は漸次崩落し、面積を縮小したので断崖部に崩落防止工事を施行した。
大鹿村教育委員会(説明板から)
松下家 概要
重要文化財松下家はこの地に古くから住む豪農であったが由緒は詳らかでない。主屋の建設年代は文政三年(1820)とみられる。建物は西に面し中央に大きな越屋根をつけているがこれは後補ある。内部は向って左側(北)に土間をとり現在桁行三列に十二室をならべている。この住宅は全体に壁が少なく裏側にも床付の座敷があり生活の中心となる居間(台所)が建物の中央でなく裏側にとられているここなど本棟造りの中ではかなり進歩した平面になる。構造材は非常に大きく八間半通しの大梁もあり、また馬屋を含む北側の一間半幅通りは軸部を別構造に作られており、このような構造は長野県西部に多い。主屋北側の土蔵は明和九年(1772)の建設で主屋より古いが豪農の屋敷構えと伝えている。この松下家住宅は質保存ともに良く年代の明らかな本棟造りの新しい例として価値が高いといわれている。
昭和五一年二月一日 文化庁 大鹿村教育委員会
(説明板から)
黒部の洞窟
長野県下伊那郡大鹿村大字鹿塩
福徳寺本堂
福徳寺本堂
大鹿村 上蔵史跡案内
大鹿村上蔵(わぞ)集落には多くの史跡が残されています。南北朝時代、後醍醐天皇の第八皇子、宗良親王が大河原城を拠点に征東府を置き、三十有余年お暮らしになりました。信濃宮神社はこの宗良親王を祀った神社で、香坂高宗は親王をお守りした人物です。福徳寺本堂は長野県最古の木造建築物として国重要文化財に指定されています。(説明板から)
長野県下伊那郡大鹿村大字大河原(小渋温泉)
薙刀と槍(室内用か短い)
おおしかむら