千國写真館
するがのくに
やまなかじょうあと
山中城跡
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障子堀
 後北条氏の城には、堀の中を区画するように畝を堀り残す、いわゆる『障子堀』という独特の堀か堀られている。
 西ノ丸と西櫓の間の堀は、中央に太く長い畝を置き、そこから交互に両側の曲輪にむかって畝を出し、障子の桟のように区画されている。
 また、中央の区画には水が湧き出しており、溜まった水は南北の堀へ排水される仕組みになっている。このょうに水捌と用水池を兼ねた堀か山城に作られることは非常に珍しく、後北条氏の城の中でも特異な構造である。
(説明板から)

西ノ丸
山中城跡
地図リンク
西ノ丸畝堀(ウネボリ)
 西ノ丸内部に敵が進入することを防ぐため完全に曲輪の周囲を堀によってとりまいている。山中城では場所によって水のない堀と、水のある堀、やわらかい泥土のある堀とに分けられる。
 この堀の中は、五本の畝によって区画されている。畝の高さは堀底から約二メートル、更に西ノ丸の曲輪へ入るには九メートル近くもよじ登らなければならない。
 遺構を保護するため、現在は芝生や樹木を植栽したあるが、当時はすべりやすいローム層が露出しているものである。
   (説明板から)
国指定史跡 山中城跡  (昭和九年一月二二日指定)
 史跡山中城は、小田原に本城をおいた北条氏が、永禄年間(一五六〇年代)小田原防備のために創築したものである。やがて大正十七年(一五八九年)豊臣秀吉の小田原征伐に備え、急ぎ西の丸等の増築が始まり、翌年三月、豊臣軍に包囲され、約十七倍の人数にわずか半日で落城したと伝えられる悲劇の山城である。この時の北条方の守将松田康長・副将間宮康俊の墓は今もの三の丸跡の宗閑寺境内に苔むしている。
 三島市は、史跡山中城の公園化を企画し、昭和四八年度よりすべての曲輪の全面発掘にふみきり、その学術資料に基づいて、環境整備に着手した。その結果、戦国末期の北条流の築城法が次第に解明され、山城の規模・構造が明らかになった。特に堀や土塁の構築法、尾限を区切る曲輪の造成法、架橋や土橋の配置、曲輪の相互間の連絡道等の自然の地形を巧みにとり入れた縄張りの妙味と、空堀・水堀・用水池・井戸等、山城の宿命である飲料水の確保に意を注いだことや、石を使わない山城の最後の姿をとどめている点等、学術的にも貴重な資料を提供している。   (説明板から)
静岡県三島市山中新田【しずおかけん みしまし やまなかしんでん】
空 堀
箱根旧街道
箱井戸
豊臣方 武将の墓
田尻の池
障子堀