宮城県白石市益岡町 【みやぎけん しろいしし ますおかちょう】
白石城(別名 益(桝)岡城)の歴史
天正十九年(一五九一)豊臣秀吉は、伊達氏の支配下にあったこの地方を没収し、蒲生氏郷に与えた。蒲生氏家臣蒲生源左衛門郷成は城下町を含む城郭、白石城を築城し城主となった。
慶長三年(一五九八)上杉領となってから上杉氏家臣甘糟備後守C長は白石城の再構築を行い居城した。
慶長五年(一六〇〇)関ヶ原合戦の直前、伊達政宗は白石城を攻略し、この地方は再び伊達領となり、伊達氏家臣である片倉小十郎が大改修を行い。以後明治維新まで二百六十余年間片倉氏の居城となった。
白石城は標高七十六メートルの最頂部には本丸・二ノ丸・中ノ丸・西曲輪、中段には沼ノ丸・南ノ丸・翼曲輪・帯曲輪・厩曲輪を置き丘の上に館堀川を巡らし、南は空堀で丘陵を切断、館堀川隔てた平地には三の丸・外曲輪を配置した平山城である。本丸は高さ九メートル余の石垣の上に土塁を囲み三階櫓そして翼櫓・坤櫓・大手門・裏三階門を構え、御成御殿・表・奥の諸建物があった。二ノ丸以下はすべて土塁で囲み、木柵をまわした崖を利用する等中世と近世城郭を併用した縄張りであった。
元和元年(一六一五)の一国一城令以後も仙台藩は幕府から青葉城と白石城の二城が許され、明治維新には奥羽越三十一列藩同盟がこの城で結ばれ、公儀府が置かれ輪王寺宮が滞城された。その後按察府の設置、兵部省兵隊屯所になるなど、日本の歴史の変転期には一役を担う重要な城であった。
--以下省略-- (説明板から)