静岡県浜名郡新居町新居【しずおかけん はまなぐん あらいちょう あらい】
無人島漂流者この地に帰る
新居宿旅篭紀伊国屋資料館
新居宿旅籠紀伊国屋は紀州の出身で、江戸時代のはじめに新居へ来て、茶屋を営んたという。はじめは小野田姓を名乗り、後に疋田弥左衛門に改めた。
旅籠屋としての創業時期は不明だが、元禄十六年に御三家のひとつ紀州藩の御用宿を勤めるようになり、正徳六年に「紀伊国屋」を名乗ることを許されたという。
その後、享保十七年に帯刀御免、延享二年に五人扶持を賜り、江戸時代後期には敷地内に紀州藩の七里飛脚の役所があった。
紀伊国屋は、明治七年の泉町大火で焼失し建て替えられ、昭和二十四年まで旅館業を営んでいた建物はその後増築したが、一部に江戸時代後期の旅籠屋の様式を残していたことから、街道文化を伝える施設として活用するため、東海道四〇〇年祭にあわせ、再生整備工事を実施した。
新居町教育委員会 (説明板から)
江戸時代中期の享保三年(一七一八)新居宿泉町筒山五兵衛船は、遠州今切湊を出帆した。翌四年の秋、奥州宮古から房州へ向う途中、銚子沖で嵐にあい遭難、大平洋を南方に流され、絶海の無人島、今の鳥島に漂着した。 乗組員十二人の内九人が死亡、残る三人が都合二十一年を生き抜いて、元文四年(一七三九)救出された。無人島生活日本最長であった。 八丈島に着いた三人は、江戸城に召し出され、八代将軍吉宗に謁見、異境のアホウドリの島での生活をじかに聞かれてその様子が詳しく語られたことで江戸中の評判になった。このことが、徳川実記に記されている。 三人は褒美を頂いた後、新居から親族の出迎えを受け、東海道を丁重に駕篭で送られてきた。関所では、役人や郷里の人々の歓迎を受け、領主松平伊豆守と地元の人々の手厚い保護を受け後々まで安穏に暮した。 死亡した水主(かこ)九人は、吉宗父島にある咸臨丸墓地に幕府の調査船蔵臨丸乗組員西川陪太郎や小笠原島初期の入植者とともに手厚く祀られている。
この建立場所「矢来道」は旧東海道沿い泉町の一角で、昔のお関所構内を仕切る「矢来(柵)」があつたとこである。
解説 文学博士 山口幸洋 平成十七年七月吉日
新居漂流者の碑 建立委員会 (説明板から)