高松城水攻略史 
今から約400年前の天正10年(1582)、織田信長の命を受け羽柴秀吉は、備中国南東部に侵入し毛利方の諸城を次々と政略するとともに、3万の大軍をもって備中高松城を攻めた。秀吉は、高松城の城主清水宗治に利をもって降伏するよう勧めたが、義を重んじる宗治はこれに応じなかった。高松城は深田や沼沢の中にかこまれた平城で、水面との比高がわずかに4mしかなく、人馬の進み難い要害の城であった。秀吉は参謀黒田官兵衛の献策に戦史にも稀な水攻を断行し、兵糧攻めにした。秀吉は、備前国主宇喜多氏の家臣千原九衛門勝則を奉行とし、3千mに及ぶ堤もわすか12日間で完成させた。時あたかも梅雨の頃で、増水した足守川の水を流し込み、たちまちにして188ヘクタール大湖水ができ、城は孤立した。     6月2日の未明、京都本能寺で信長は明光秀に討たれた。秀吉はこれをかたく秘めて毛利方の軍師、安国寺恵瓊を招き「今日中に和を結べば毛利から領土はとらない、宗治の首級だけで城兵の命は助ける」という条件で宗治を説かした。宗治は『主家の安泰と部下5千の命が助かるなら明4日切腹する』と自刃を承諾した。時に6月4日已の刻(午前1O時)湖上に船を漕ぎ出し、秀吉から贈られた酒肴で最後の宴を張り、誓願時の曲を舞い、『浮世をぱ 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して』と辞世の歌を残して46歳を一期として見事自刃した。 (説明板から)

千國写真館

びっちゅうのくに
びっちゅう
 たかまつじょう

備中 高松城
備中国
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秀吉の中国大返しの地(ちゅうごく おおがえし):信長の死後、京都へ向かう強行軍の事。
6月2日本能寺の変(備中高松城で対峙中)、3・4・5日休み、6日清水宗治切腹、移動、7日姫路、8日嵐で休み、9日移動、10日尼崎、11日移動、12日摂津富田に着陣、13日山崎の戦い(天王山の合戦)。約200Km。謎が多いです。

備中高松城
(水攻めされた城)

国指定史跡 高松城跡
高松城とは・・ 
高松城は、備前国に通じる平野の中心しかも松山往来 (板倉宿から備中松山城へ至る)沿いの要衝の地にあり天正10(1582)年の中国役め主戦場となった戦跡として有名である。 城は沼沢地に臨む平城(沼城)で、石垣を築かす土壇だけで築成された「土城」である。城の周辺には、東沼、沼田などの地名に象徴されるように、沼沢が天然の外堀をなしていたのが窺われる。縄張りは、方形(一辺約50m)の士壇(本丸)を中核にして、堀を隔てて同規模のニの丸が南に並び、さらに三の丸と家中屋敷と、コの字状に背後を囲む単純な形態である。 本丸跡は江戸時代初期にも陣屋として活用されていた。

中国投とは‥
  全国統一を目指した織田信長は西進を図り毛利方と対峙した。毛利方備中境に境目七城(高松城・宮地山城・冠山城・加茂城・日幡城・庭瀬城・松島城)を築き備えた。識田軍の先鋒羽柴秀吉は、天正10年に三万の軍勢をもって同国南東部に侵攻し、境目の城を次々に攻略した。最後に、攻めあぐねていた高松城の周囲に約2.6Kmの堤防を短期間(12日間)で築き。折からの梅雨を利用して足守川の水を引き入れ水攻めを敢行した。籠城1ヶ月余を経て城兵が飢餓に陥ったころ、本能寺の変が起きた。秀吉は毛利との講和を急ぎ、高松城主清水宗治の切腹と開城を条件に休戦を成立させ、ついに高松城を落城させた。 本丸跡には明治末年に移転改葬された宗治の首塚があり、北西の家中屋敷跡の一画に宗治の遺骸を埋葬した胴塚も残されている。
 築堤跡は蛙ケ鼻に現在も一部残存している。   平成8年3月 岡山市教育委員会  (説明板から)

ごうやぶ遺跡
羽柴秀吉の高松水攻めにより、1582年6月4日に切腹した高松城の城主清水宗治を追って、宗治の家臣らが互いに差し違えて殉死した所といわれています。 
  (説明板から)

高松城址公園 資料館

清水長左衛門宗治公の首塚

清水宗治公自刃の地、両軍戦死将兵の供養塔

辞世の歌碑
、『浮世をぱ
   今こそ渡れ
  武士の
   名を高松の
  苔に残して』

岡山県岡山市北区高松【おかやまけん おかやまし きたく たかまつ】