千國写真館
近江八幡城下

おうみ
はちまん じょうか

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近江八幡
近江商人城下町

八幡堀
   天正十三年(西暦一五八五年)豊臣秀次がこの町を開き翌十四年八幡山下町掟を公布し、その条項の中に琵琶湖を往還するすべての船は、この八幡堀を利用して八幡の町へ立寄ることを定めて町の発展策とした。この運河によって北陸、京阪神の物資だけでなく政治、文化等あらゆるものが町の中に運び込まれ、湖東地方の中心地として栄えたのもこの八幡堀が大きな役割を演じて来たのであり、正に歴史の流れを作って来た掘割である。(説明板から)

地図リンク

滋賀県近江八幡市新町1丁目 【しがけん おうみはちまんし しんまち1ちょうめ】

近江八幡の街並みについて
 近江八幡市は、天正13年(1585年)に豊臣秀次(豊臣秀吉の甥)が八幡山に城を築いたことに始まります。
 秀次の楽市楽座等による商工業の発展政策は、その後の近江商人の活躍の原動力となりました。天正18年(1590年)に秀次が移封され、ついで京極高次が城主となりますが、わずか5年後の文禄4年(1595年)に廃城となります。城下町商人としての特権は失われましたが、船や街道を利用して多くの人や情報、文化が入ってくる地の利を活かし、その先進性と自立的な商法により八幡を本店として江戸や大坂に出店を設けるなど活躍していきます。 今なお碁盤目状の整然とした街並みは旧市街地に残され、特に新町や永原町にはかつての近江商人本宅の家々が立ち並び、八幡堀に面した土蔵群は往時の繁栄を偲ばせます。 (説明板から)