たっこくいわや
びしゃもんどう
蝦蟆ケ池辨天堂(がまがいけべんてんどう)
窟毘沙門堂前庭に池を蝦蟆ケ池と云う。昭和六十年の調査で蝦蟆ケ池旧護岸から平安末期のかわらけが大量に発掘された。この池の中島に祀られる八肘の辯才天は慈覚大師の作と伝えられ、昭和二十一年の大火にも消失を免れ、「生けるが如し」と称される美しい御姿で名高い。巳年生れの守本尊で、その使の蛇を拙寺では大切に保護している。 昔から財宝を授ける福徳神として「辨天には銭上げて拝め」と云われ、特に商家の信仰が厚い。
また知恵の神、技芸の神、そして悋気な天女の故、縁切りの願が叶うと伝えられ、仲良き男女は共に参らぬ習わしがある。 (説明板から)
悋気(りんき):ねたむこと。特に情事に関する嫉妬。 やきもち。
岩手県西磐井郡平泉町平泉 【いわてけん にしいわいぐん ひらいずみちょう ひらいずみ】
岩面大佛(がんめんだいぶつ)
毘沙門堂西方の約そ十丈(約三十三m)にも及ぶ大岩壁に刻まれた魔崖佛は、前九年後三年の役で亡くなった敵味方の諸霊を供養する為に陸奥守源義家公が馬上より弓はずを以て彫り付けたと伝えられている。この大佛は高さ五十五尺(約十六・五m)、顔の長さ十二尺(約三・六m)肩巾三十三尺(約九・九m)全国で五指に入る大像で、「北限の魔崖佛」として名高い。元禄九年(一六九六年)の記録に「大日之尊體」(岩大日)その後岩大佛と記され、現在は岩面大佛と呼ばれている。
猶、尊名は岩大日の記録から大日如来とする考えもあるが、拙寺では昔から阿彌陀佛名号を唱えており、戦死者追善の伝説からも阿彌陀如来とするのが正しいと思われる。その証左として岩面大佛の下に立つ「文保の古碑」(一三一七年)には阿彌陀の種子である「キリク」が刻まれている。明治二十九年に胸から下が地震により崩落し、現在も摩滅が進んでおり早急な保護が叫ばれている。 (説明板から)
達谷窟毘沙門堂縁起
約そ千二百年の昔、悪路王・赤頭・丸等の蝦夷がこの窟に塞を構え、良民を苦しめ女子供を掠める等乱暴な振舞が多く、国府もこれを抑える事が出来なくなった。そこで人皇五十代桓武天皇は坂上田村麻呂公を征夷大将軍に命じ、蝦夷征伐の勅を下された。対する悪路王等は達谷窟より三千余の賊徒を率い駿河国清見関まで進んだが、大将軍が京を発するの報せを聞くと、武威を恐れ窟に引き返し守りを固めた。延暦二十年(八〇一年)大将軍は窟に籠る蝦夷を激戦の末打ち破り、悪路王・赤頭・丸の首を刎ね、遂に蝦夷を平定した。大将軍は戦勝は毘沙門天の御加護と感じ、その御礼に京の清水の舞台造を模ねて九間四面の精舎を建て、百八躰の毘沙門天を祀り、国を鎮める祈願所として窟毘沙門堂と名付けた。そして延暦二十一年(八〇二年)には別當寺として達谷西光寺を創建し、奥眞上人を開基として東西三十余里、南北二十余里の広大な寺領を定めた。
降って前九年後三年の役の折には源頼義公・義家公が戦勝祈願の為、寺領を寄進し、奥州藤原氏初代清衡公・二代基衡公が七堂伽藍を建立したと伝えられる。 文治五年(一一八九年)源頼朝公が奥州合戦の帰路、毘沙門堂に参詣され、その模様が「吾妻鏡」に記されている。中世には七郡の太守葛西家の尊崇厚く、延徳二年(一四九〇年)の大火で焼失するが、直ちに再建された、戦国時代には東山の長坂家より別當が赴き、多くの宗徒を擁したが、天正の兵火に罹り、岩に守られた毘沙門堂を除き、塔堂楼門悉く焼失した。慶長二〇年(一六一五年)伊達政宗公により毘沙門堂は建て直され、爾来伊達家の祈願時として寺領を寄進されていた。
昭和二十一年隣家から出火。御本尊以下二十数躰を救い出したが毘沙門堂は全焼した。昭和三十六年に再建された現堂は創建以来五代目ちなる。内陣の奥に慶長二十年伊達家寄進の厨子を安置し、慈覚大師作と伝えられる御本尊・吉祥天・善膩子童子秘佛として収める。次の開帳は平成二十二年となる。
毘沙門天は虎年の守本尊である。また軍神であり悪鬼を拂い、財宝・官位・知恵・寿命等の福を招き、諸々の願いが叶うとされ、毘沙門講を結び参詣する人々が後を断たない。毎月三日の月例祭、春秋の大祭を始め多くの祭事があるが、特に正月一日から八日迄行われる修正會は慈覚大師から恵海大和尚が伝え、千年余も続く神事である。 (説明板から)