千曳神社

(ちびきじんじゃ)

日本中央の碑 保存館

千曳神社由緒
前略
 本社は大同二年(八〇七)坂上田村麻呂の創祀と伝えられる。山伏修験道本山派五戸多門院の配下、上北郡横浜八幡別当大光院の霞に属したが、一時花巻の神官稲田遠江の支配に属したこともあった。
 江戸時代には、幕府巡見使の参拝所であり、南部領では巡路第一の地であった。それ故に巡見使通行の節、見苦しきため、取り毀し仮社としていたが、明和二年(一七六五)再興した。古くから「日本中央」と刻んだ「壺の石文」を建てたと伝説があって、これを尋ねた和歌や紀行文が多いことで知られている。(説明板から)

ひのもとの
まなか

日本中央
千國写真館

東北ミステリー

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(三八上北)
日本中央の碑
発見地・千曳神社

青森県上北郡七戸町字菩提木 【あおもりけん かみきたぐん しちのへまち あざ ぼたいぎ】

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「日本中央の碑」(つぼのいしぶみ)発見地
 本蹟は、十一世紀から十二世紀にかけて和泉式部、懐円、西行、寂蓮、慈円、阿仏尼、源頼朝など多くの人々に好まれた歌枕のひとつ、「つぼいのいしぶみ」は、その後多くの人々の関心を呼び、これを探し求める者が後を断ちませんでした(注2)。 明治十四年、明治天皇奥羽巡幸の折の探索・発掘でもみつからなかった碑でしたが、昭和二十四年六月二十一日、馬頭観音の石を求める千曳の川村種吉氏により姿を現しました。

 読み方「日本中央」=ひのもとのまなか
    平安京建設に並ぶ二大国策のひとつ「征夷」の歩みが北へ進む中、「日の本」と呼ばれていた蝦夷の国もまた、北へと押し上げられた。 都母(つも)=つぼの国は当時その中心に位置していた。
(注1)『袖中抄』=しょうちゅうしょう  「いしぶみとは陸奥のおくにつぼのいしぶみ有り。日本の東のはてと云えり。田村の将軍征夷の時、弓はずにて石に面に、日本の中央のよし書付けたれば、石文と云ふと云えり。信家の侍従の申ししは、石の面ながさ四、五丈計なるに文えりるきたり。其所をばつぼと云ふなり。それをつもとは云ふなり」
(注2)碑発見に至る経緯
    一七七八、平沢元ト 北海道へ向かう途中野辺地に宿泊、「つぼのいしぶみ」を探索。
    一七八八、菅江真澄、石文村で「つぼのいしぶみ」について尋ねるも不明。「遊覧記−いわてのやま」(七月五日の条)
    一八七六、七月、木戸孝允、「壺の碑」を求め千曳神社の発掘を先導するが見つからず。
    一九三四、東京の江口少将が発起人となり「日本中央の碑」を求め捜査するも未発見。(十一月二十二日付け東奥日報)
    一九四九、六月二十一日、千曳の川村種吉、本蹟で「日本中央の碑」を発見。
 十七世紀中頃、仙台藩二代伊達忠宗より四代網村の時代にかけて、古典の研究から歌枕を領内に結びつけていく動きが高まります。その過程で、少なくとも寛文年間以前に多賀城跡の一角で発見された古碑に注目が集まりました。殊に水戸光圀は『大日本史』編集の為に碑の調査を行うなど、大きな関心を示し、水戸藩では以降も碑の研究が進みます。その後、十七世紀後半に松尾芭蕉がこれを訪ね、『奥の細道』を刊行してからは広く、「多賀城碑=つぼいのいしぶみ」として一般化します。しかし、十八世紀中頃には南部藩でも同様の動きが高まり、先の「袖中抄」を手がかりに、南部藩内の本物の「つぼいのいしぶみ」が存在すると言われるようになります。江戸中期以降、古川古松軒が『東遊雑記』で、さらには水戸の地理学者長久保赤水が「東奥紀行」で南部坪村に日本中央と題した石碑があると記してから後は、むしろ南部藩壺碑に注目が集まりました。 (説明板から)

日本中央の碑を発見した場所

青森県上北郡東北町字千曳 【あおもりけん かみきたぐん とうほくまち あざ ちびき】

日本中央の碑 発見地

青森県上北郡東北町字川迎 【あおもりけん かみきたぐん とうほくまち あざ かわむかえ】

話題の新聞
多賀城碑の拓本 尺二分の一
「壺碑」と書いてある地図
日本中央の碑 保存館

    東北町指定文化財 (平成元年十二月七日指定第一号)  日本中央の碑    (つぼのいしぶみの由来)
 この日本中央の碑は、昭和二十四年六月二十一日、当町(当時甲地村)の石文集落近くの赤川上流で、千曳の川村種吉氏により発見された。 古歌に詠まれた名所を歌枕と言うが、数ある歌枕の中で「つぼのいしぶみ」ほど、好事家の話題にのぼったものはない。 このつぼいのいしぶみを始めて解説したのは、歌学者顕昭(西暦一一三〇年頃〜一二一〇年頃)である。その著『袖中抄〔ショウチュウショウ〕』に  (前略) 顕昭云、いしぶみとは陸奥のおくにつぼいのいしぶみ有り、日本のはてと云り。       但田村の将軍征夷の時弓のはずにて石の面に日本の中央のよしを書付けたれば石文と云と云り。       信家の待従の申しは、石面ながさ四五丈計なるに文をゑり付けり。其所をつぼと云也。(後略)
れている。但し、田村麻呂の陸奥下向は盛岡市近辺の志波城までであってそれより北に及んでいない。 田村麻呂に続いて、征夷将軍となったのは文室綿麻呂〔フンヤノワタマロ〕である。綿麻呂は弘仁二年(八一一年)に都母村に進撃している。『袖中抄』に書かれている事を当てはめるならば、石に日本中央の文字を刻んだのは綿麻呂ということになるのであろう。 なお、「日本中央」の「日本」は、ひのもと と訓じて東北地方を指す言葉であったと思われ、そこから先は中央政府の支配の及ばない地、それが日本であり、政府の威令が浸透するとともに、日本の地域もしだいに、狭められる事になる。従って、この「いしぶみ」は東北の古代史を物語るものである。
     平成七年四月    東北町教育委員会    (説明板から)

伝説により明治天皇が発掘させた神社
日本中央の碑 発見時の写真