だんのうら
こせんじょう
馬関戦争 (下関戦争)
長州藩は攘夷親征の朝旨を実現するため,攘夷を実行した。下関海峡を通過するアメリカ商船に砲撃を加え,さらに列国軍艦にも攻撃を加えた。4国の連合艦隊は報復のため長州藩砲台および、同藩軍艦に攻撃を加えて損害を与え、各国の陸戦隊がこれらを占拠・破壊した。 長州藩は降伏。(砲弾が違った。)
山口県下関市みもすそ川町【やまぐちけん しものせきし みもすそがわちょう】
ばかん
日本史の節目を刻む関門海峡
西へ東へと一日に四回、その流れの向きをかえる関門海峡。
せまい所では、両岸の幅は七〇〇メートルあまりで、潮流の速度は、最高で約一〇ノット(時速一八キロ)にもなります。また、瀬戸内海の入口に位置する地理的条件から、昔も今も交通の要衝で
、日本の歴史の節目を刻む舞台となっています。寿永四年(一一八五)三月二四日、平知盛を大将にした平家と、源義経ひきいる源氏がこの壇之浦を舞台に合戦をしました。当初
は平家が優勢でしたが、潮の流れが西向きに変わり始めると源氏 が勢いを盛り返しヽ平家は追い詰められました。最後を覚悟した 知盛が、その旨を一門に伝えると、二位の尼は当時数え八歳の安
徳天皇を抱いて入水。知盛も後を追って海峡に身を投じ、平家一 門は滅亡。日本の政治は貴族から幕府による武家政治へと移行し ていきました。なお、この戦いにおいて義経は平教経の攻撃を船
から船へと飛び移ってかわし、いわゆる「八艘飛び」を見せたと言われています。 下関市 (説明版から)