たきざわ
ふどうおおたき
忠治の岩窟
今から凡そ一二一年前のこと、八州見廻り役の追手から逃れて、赤城の山へ立て籠もり天保十一年の十一月から翌年の二月に、 赤城の山を降り、信州路へ国越えするまでの霜枯三ヶ月間をこの
岩窟で過ごしたというので、人呼んで忠治の岩屋という。
この洞窟は今から凡そ五〇〇万年位前頃赤城の山が終熄期に入 ったときに出来たものといわれ、洞窟の第一窟の面積は凡そ五米平方、第二窟は十米平方、その第二窟の一隅に一つの孔道があるのであるが、その深さは全く未知なものである。
(説明板から)
滝沢不動尊の由来
ご本尊の不動尊は、今から概ね六百年前の応永十三年(一四〇六年)に、邑楽郡佐貫村(現明和町)の豪族庄司又太郎藤原沙弥道慶び、野州(現栃木県)佐野の仏師に鋳造させ奉祀したものである。不動尊は八十五センチメートル、重量百キログラムの赤銅製で火焔、右腕、両足はかかとから台石毎もぎ取られて、人呼んで「片手不動」と呼ぱれている。 右腕は上杉謙信か二十六歳の鎌倉攻めの時、滝沢不動尊を訪れて必勝祈願を行った際に、戦のお守りとして切り取ったが「不動様の手を持っていると負け戦になるとの神のお告げかあり、途中武蔵の国手計村(現埼玉県深谷市)にある下手計鹿島神社の不動明王の体内に手厚く奉納したとされている。また、両足のついた台石は、天明四年新里村関にある瀧興寺住職が、滝沢滝不動様の再三に渡る火災を嘆き悲しみ、山深い滝沢の地に移り住んで不動尊をお守りしたか、その後台石を分離して瀧興寺に移し、今もなお同寺の本堂に祀られている。
なお、火焔は群馬郡榛名町室田にある天台宗大福寺に「火焔不動」として祀られていると言われているが定かではない。 平成十六年四月
「真藤正実害滝沢不動尊由来記より」 (説明板から)
群馬県前橋市粕川町中之沢 【ぐんまけん まえばしし かすかわまち なかのさわ】
不動尊までは普通の山道、不動尊から不動滝までは川の中を歩く(渡り板あり)事になるため、足腰の弱い方は行かない事。