鈴鹿の関
現在、関所跡は位置、規模供に詳細は不明だそうです。西の追分附近ではないかと、乞う御期待です。
関の旅籠
関で泊まるなら鶴屋か玉屋、またも泊まるなら会津屋か。
旅籠銭は二食付き、一室に数組を詰め込む相宿が普通。250〜270文が旅籠銭の相場。昼食代は100文、峠の茶屋はお茶やお菓子で50文。(説明板から)木賃宿は自炊。
町指定史跡
関の小万之墓
関の小万が亀山通い 月に雪駄が二十五足
関の小万は若くして父の仇を討った烈女と伝えられる十五才から風雪にめげず亀山の道場に通って
修行につとめ武を練り天明三年八月本懐を遂げた享和三年没(妙証信女)地蔵院前には小万の育った宿屋山田屋の跡が現存する小万の碑は当山境内にあり、唄は鈴鹿馬子唄 (碑文から)
東の追分案内板
ここ西の追分は大和街道との分岐点にあたり、東海道、京都方への次の宿は坂下宿で、鈴鹿峠を越えて京都へは19里半(78キロメートル)あります。また大和街道は加太越えをして伊賀から奈良に至ります。(説明板から)
三重県亀山市関町中町 【みえけん かめやまし せきちょう なかまち】
いせ
すずかのせき
関は、古代愛発(アウチ)(越前)・不破(美濃)とともに日本三関の一つで在った「鈴鹿の関」が置かれたところです。江戸時代には、東海道五十三次の四十七番目の宿場町として殷賑を極めました。この歴史を語る旧東海道東西追分の一・八Kmが昭和六十一年八月十日「道の日」制定を記念して建設大臣より「日本の道百選」に顕彰されました。(碑文から)
東の追分
関が歴史に登場するのは、7世紀この地に「鈴鹿関」が設けられたのがはじめで、これが地名の由来ともなっています。 慶長6年(1601)徳川幕府が宿駅の制度を定めた際、関宿は東海道五十三次で四十七番目の宿場となり、問屋場や陣屋なども整えられました。古文書によると天保14年(1843)には、家数632軒本陣2、脇本陣2、旅籠屋42があったとされ(東海道宿村大概帳)鈴鹿峠を控えた東海道の重要な宿駅として、また伊勢別街道や大和街道の分岐点として、江戸時代を通じて繁栄しました。
ここ東の追分は伊勢別街道の分岐点で、鳥居は伊勢神宮の式年遷宮の際、古い鳥居を移築するのがならわしになっています。江戸方への次の宿は、亀山宿です。道標には外宮(伊勢神宮)まで15里(60キロメートル)と刻まれています。