犬山城
千國写真館

いぬやまじょう

Counter
犬山城 別名:白帝城

犬山城
この「おもがる石」は、あなたの願いや思いを神様にお願いし叶うな らば軽く上がり、叶わなけ時は重く感ずるという。不思議な石であります。
方 法
一、目を閉じて祈りを捧げる。
一、目を閉じたまま石をなで戴くようにして両手で持ち上げる。
その結果「成るか成らぬか」がわかります。(説明板から)

木ノ下城跡
木ノ下城は、室町時代の文明(一四六九)に築かれ、織田広近が最初に入城したといわれる。以後七〇年間、代々、織田氏が居城した。天文六年(一五三七)織田信康(織田信長の叔父)が、城を木曽川南岸の地に移した(犬山城)ので、この城は廃城となった。
愛宕神社本殿の建つ高台には、城の主殿があり、城郭は南に構えられたと思われる。
境内にある古い井戸は、金明水と呼ばれ、神社の西南方一〇〇mの大榎の下にある銀明水と呼ばれる井戸とともに、当時の木ノ下城域に掘られたものであろう。また、白厳水と彫られた手洗石が置かれているが白厳とは織田信康の号名である。
愛宕神社は慶長一一年(一六〇六)銀治屋町の銘鍛冶兼常が、当時の犬山城主小笠原吉次に願い出て、旧城地に天台宗の愛宕山長泉寺延命院を建立し、将軍地蔵を祀ったのがはじまりである。
その後、前原神田入鹿山白雲寺の良陳らが住僧となって代々継いだが、明治初年の神仏分離政策により、寺は廃され神社として残り現在に至った。(説明板から)

犬山城の歴史
 犬山城は天文六年(一五三七年)に織田信長の叔父にあたる織田与次郎信康によって造られました。 戦国時代なので、その後何代も城主が代わりましたが、一六〇〇年の関ケ原合戦の頃を中心に、城郭は整備されていきました。   小牧長久手合戦(一五八四年)の際には、豊臣秀吉は大阪から一二万余の大軍を率いてこの城に入り、小牧山に陣をしいた徳川家康と戦いました。 江戸時代になり、尾張藩の付家老、成瀬隼人正正成が、元和四年(一六一八年)城主となってからは、成瀬家が代々うけついで明治にいたりました。
明治四年(一八七一年)九代目成瀬正肥のとき廃藩置県で廃城となり、櫓や城門など天守閣を除く建物はほとんど取り壊されてしまいました。  明治二四年の濃尾雲災で、天守閣の東南角の付櫓など、ひどく壊れましたので、それを修理する条件で再び成瀬家所有の城となりました。 その後、伊勢湾台風などでも被害をうけましたが、昭和三六年(一九六一年)から四〇年まで四年間をかけて解体修理をおこないました。望楼型の独立天守で高さは二十四メートルです。
 国宝に指定されている犬山城、松本城、彦根城、姫路城の四城のなかでも、最も古い城であります。 平成十六年四月、財団法人 大山城白帝文庫が設立され、城の所有は個人から財団法こなりました。(説明板から)

愛知県犬山市大字犬山 【あいちけん いぬやまし おおあざ いぬやま】

三光稲荷神社
愛宕神社

愛知県犬山市大字犬山 【あいちけん いぬやま しおおあざ いぬやま】

地図リンク
地図リンク

木ノ下城跡