外の桜は終わっていました。
ひだたかやま
なかばし
山岡鉄舟
山岡鉄舟、名は高歩通称鉄太郎 幕末明治の政治家禅に通じ剣を極め書を能きした。弘化二年(一八四五)飛騨郡代として着任した父 小野朝右衛門母磯について高山陣屋へ入った。書は高山の書家岩佐一亭に教えられ、十五歳で弘法大師流入木道の伝統を継承した。剣は江戸から招請した北辰一刀流の井上清虎に学びのち一刀流正伝を継ぎ無刀流の一派を開いた。禅は十三歳ごろに始め
国漢学絵画等も高山在住時代の約八年間に学ぶなど、人間形成の礎は飛騨の風土の中で培われたものと考えられる。陣屋の松をみて 「降る雪と
力くらべや 松の枝」と詠んだ。父母の死去後江戸へ帰りのち山岡家の養子となった。義兄の高橋泥舟等と共に幕臣として活躍、慶応四年(一八六八)三月西郷隆盛と会見して江戸を戦火から救い徳川家に安奉を導いた。
維新後は明治天皇の侍従をつとめ宮内少輔を拝命五十二歳の五月華族に列せられ勲功により子爵を授けられた。翌明治二十一年(一八八八)七月十九日病を得て結跏趺坐のまま五十三歳の生涯を閉じ東京谷中の全生庵に葬られた。父母の墓は高山市東山宗獸寺にある。昭和六十二年十二月
山岡鉄舟翁顕彰会
原型制作 日本芸術院会員 三坂耿一郎 (説明板から)
中 橋
昔より、橋の中の橋というところより中橋といった。
天文五年(一五三六)の刻銘ある擬宝珠を付けた欄干付きの優美な京風の橋で幕府が公費で架け替えたという。当時この工事の人夫に出た高山町民に賃金が払われ、時の郡代の評判はよかったという。また橋を渡り始めてから三枚目の踏板で福神像を彫ってまつると幸福が授かるという言い伝えが残っている。 (説明板から)
岐阜県高山市本町1丁目【ぎふけん たかやまし ほんまち 1ちょうめ】
花吹雪なのだが〜