千國写真館

しらかわのせき

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幌掛の楓
源義家が安部貞任追討(前九年の役)のため、白河の関を通過する時、この楓に幌をかけて休憩したと伝えられる。
霊櫻之碑
国指定史跡  白 河 関 跡
                指定年月日 昭和四十一年九月十二日
                指定面積  五七、ハ九七平方メートル
                所有者   白河神社・白河市他
                管理団体  白河市
  白河の関は、古くよりみちのくの関門とーて歴史にその名を刻みまた文学の世界では歌枕として数多くの古歌に詠まれた場所である。  関の位置については久しく不明であったが江戸時代中期、時の白河藩主松平定信の考証により、この地か白河関跡であると柱定され、寛政十二年(一ハ00)に『古関蹟』の碑が建てられ、今曰に至っている。 関が置かれた年代については不明であるが、承和二年(八三五)、延暦一ハ年(七九九)の太政官符には「白河セン」の名が認められることや歴史的な背景からみて、大化の改新以後七・八世紀頃には存在していたものと考えられる。また、廃絶も明確ではないが、十二、三世紀頃と考えられている。  昭和三十四年から三十八年までに実施された発掘調査では、竪穴住居跡や掘立柱建物跡、空堀、土塁、柵列などの古代から中世にいたる遺構が発見され、縄文土器、土師器・須恵器・灰紬陶器、鉄製品などの遺物が出土している。出土した土師器の中にはヽ『門、大室、□舟』などの墨書土器がみられる。 白河の関の全体像についてはまだ来解明な点もあるが、現在も奥州三関の一つとして多くの人々に親しまれ、空堀、土塁などの遺構の一部が現存し、歴史のひとこまに触れることができる場となつている。 また、春には藤やかたくりの花が咲き、訪れる人々の心を和ませている。   
     文  部  省    白河市教育委員会    (説明板から)
従二位の杉
鎌倉初期 従二位藤原家隆が手植し奉納したと伝えられる老木である。 樹齢八百年 周囲約五メートル。
庄司戻しの桜(霊櫻之碑)
福島県西白河郡表郷村大字中野 【ふくしまけん にししらかわぐん おもてごうむら おおあざ なかの】
白 河 関
古関蹟の碑
 白河藩主松平定信(楽翁 )が寛政十二年八月、ここが、白河の関跡であることを確認して建立した碑である。
空堀跡
白河神社
     村指定史跡 庄司戻しの桜
一、所在地 表郷村大字中野字正司戻五十八
一、所有者 中野部落
一、指定年月日 昭和五十五年三月十四日
  概 説   治承四年(一一ハ○)兄、源頼朝の挙兵を知り奥州平泉から継倉に駈せる義経に対し、信夫の庄司佐藤基治は自子継信・忠信を従わせ、自分も送ってこの地まで参り、袂別するにあたり「汝等忠義の士たらばこの桜の杖か生づくであろう。」と論して携えていた一本の桜の杖をこの地に突き立てた。後、戦に臨み兄弟共に勇戦源斗して討死した。 桜は活着繁茂したと伝う。この老樹天保年間野火によって枯れた後も、新しい芽か次々と美しい花を咲かせるという。
表郷村教育委員会     表郷村文化財保護審議会
  (説明板から)
福島県白河市大字旗宿 【ふくしまけん しらかわし おおあざ はたじゅく】
旗立の櫻
治承四年源義経が、平家追討のため平泉を発し、この社前に戦勝を祈願、旗揃えをした時この櫻に源氏の旗印を立てたと伝えられる
矢立の松
治承四年源義経が、平家追討のため平泉を発し、この社前に戦勝を祈願、旗揃えをした時この松に矢を射立てたと伝えられる。矢立の松も戦時中無事と戦勝を祈願して、その枯片を持ち去り、今は少量の根を残すのみです
白河の関