皆さんポリタンクを持って来て汲んでます。一度に平均100リトル持って帰る様子。

阿比留文字

千國写真館
                        群馬県指定天然記念物
三夜沢赤城神社のたわら杉
                         昭和四八年四月二五日指定

 赤城神社の境内には杉の大木が多数あり、ヒノキやアスナロなどもみられます。中でも目を引くのが中門南側とその西隣にある三本の杉の大木「たわら杉」です。東側のものから、目通り周五・一m、六・一m、四・七m、根元周六・〇m、九・六m、五・六mとなっており、樹高は各々約六〇mです。これら三本の杉は群馬県内でも最大級のものといえるでしょう。
 たわら杉には、「藤原秀郷(俵藤太)が平将門について上野国府(前橋市)に来る途中、赤城神社の前を通りかかった際に献木したものである」という伝説が伝えられています。藤原秀郷は藤原鎌足八代の後裔と伝えられ、平将門の乱を平定し、武蔵守・下野守・鎮守府将軍をつとめたとされる平安時代の武将ですが、その実像はあまりわかっていません。
 一方、秀郷に関する伝説としては、大ムカデを退治して琵琶湖の龍神を助けた、弓矢の名手にして神仏への崇敬篤い英雄として描く御伽草子「俵藤太物語」が有名です。鎌倉時代、上野国(群馬県)東部から下野国(栃木県)南部にかけての地域は、幕府の弓馬の家として一目を置かれた大武士団の拠点でした。
彼らはともに「秀郷流」を称していましたので、おそらく秀郷がムカデ退治の弓矢の名手「俵藤太」として説話の世界で活躍を始めるのはこのころからです。秀郷流武士団のなかでも赤城神社への信仰が篤かったのは大胡氏でしたが、富岡市一之官貫前神社境内にある「藤太杉」にも同様な伝説が伝わっていることから、弓矢の名手秀郷へのあこがれは、中世の武将たちに共通する意識だったのかもしれません。
 ところで、日光の二荒山神社の縁起では、日光神と戦った赤城神がムカデの姿で表されており、起源を異にする秀郷とムカデと赤城神社が様々な伝承や説話を受け入れながら結びついてきた様子がうかがえます。このように、「たわら杉」とその伝説は、名も無き多くの人々の交流の歴史を伝える遺産であり、赤城神社に対する時代と地域を超えた篤い信仰を象徴しています。

          平成一Ξ年三月 群馬県教育委員会       宮城村教育委員会
水・文字
赤城神社
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宮城村指定重要文化財   神代文字の碑       昭和五十三年四月指定

一般に日本民族は漢字が伝わる以前は、文字というものを知らなかつたとされているが、伝説ではそれ以前に神代文字と呼ばれるものがあつたといわれ、現在はつきりしているものだけでも数種類にもなります。
 この碑文は復古神道を体系づけ実践化し、又「神学日文伝」の著作者で神代文字肯定者の一人でもある江戸時代の国学者平田篤胤の養子鍾胤が、上部の神文については、鏑胤の子延胤が撰文し、書は篤胤の門人権田直助によるものです。
 神文については、対馬国「阿比留家」に伝わる神代文字(阿比留文字)で書かれ、復古神道の遺物として重要なもので明治三年三月に建てられました。
                                平成十一年三月
                               宮城村教育委員会

神代文字の碑

住所:群馬県勢多郡宮城村大字三夜沢   読み:ぐんまけん せたぐん みやぎむら おおあざみよさわ

拝殿

たわら杉

本殿

赤城神社 境内

たわら杉

御神楽