坂本龍馬記念館。(右手の端から見るとかっこいい建物です。暑くて止めた)
龍馬のピストル(模造)
日本初の新婚旅行をしたとか
龍馬の手紙が展示してある(天の逆鉾を見学している)
桂 浜
景観
桂浜公園
千國写真館

慶応3年4月に、土佐藩に海援隊が設立され、その隊長に龍馬が任命された。
この海援隊は、龍馬が中心となって結成した「亀山社中」を承継し、土佐藩に所属するものであったが、長崎を中心として殆ど自由な 活動が許されていた。岩崎弥太郎は「海援隊・土佐商会」の財務調整を任されたのを契機に、実業家としての頭角をあらわす。
『いろは丸事件』後、龍馬は、近江屋の二階で凶刃に倒れた。海援隊は、翌年土佐藩によって解散させられた。
紀州藩から土佐藩に七万両のいろは丸賠償金を支払う?。
岩崎弥太郎は、維新後も「土佐商会」の運営を任されるが、廃藩置県から民営化され、後に大阪の「土佐商会」を買い取り、「土佐大阪商会」は「土佐開成社に改称し、そして「九十九商会」と改称、その後また社名を「九十九商会」から「三川商会」と改称した。
明治6年3月、弥太郎は「三川商会」を家紋をマークにして、岩崎の個人事業である「三菱商会」を創設した。三菱商会は、土佐藩の「夕顔」「鶴」など四隻の汽船を借り軍事輸送を独占、海運業を中心事業として発展した。三菱の創業者岩崎弥太郎の死後、弟の弥之助は海運業を分離した後、『三菱社』三菱財閥第2代の統率者となる。

三菱財閥:江戸時代に起源をもつ三井や住友とちがい、明治期に形成された。明治政府と密着し、戦争を契機に巨大化し、太平洋戦争まで軍需産業の中心をにないつづけた。
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豪気節 (旧制高知高校第1回生)   余田 弦彦
  一ツトセ 一人のあの娘が恋しけりゃ潮吹く鯨で気をはらす
                 そいつ豪気だね
  二ツトセ 故郷忘れよか若き身に桂の浜に星が飛ぶ
                 そいつ豪気だね
  三ツトセ 南の海や土佐の国革命と自由の生れし地
                 そいつ豪気だね
  四ツトセ 善し悪し騒ぐな野暮な奴飲めや歌えやはね廻れ
                 そいつ豪気だね
  五ツトセ 意気は尊い血が燃ゆる黒い女にゃ慕われる
                 そいつ豪気だね
  六ツトセ 無為に過ごさぬ三年の元気はみ国の宝なり
                 そいつ豪気だね
  七ツトセ 泣いちやいけない気が弱い二十世紀に吼ゆる身じゃ                 そいつ豪気だね
  八ツトセ 優しい心もないじやない浦戸の沖に嶋く千鳥
                 そいつ豪気だね
  九ツトセ この浜よする大浪はカリフォルニヤの岸を打つ
                 そいつ豪気だね
  十 トセ 時は永劫じゃ常夏の土佐の高校の胸の意気
                 そいつ豪気だね
最近、化粧直しをしたので現在きれい。
坂本龍馬の横顔
 坂本龍馬は高知の城下町に住む郷士の次男として生まれ(1835年)、青年時代江戸に出、千葉道場で北辰一刀流を学び剣士として知られているが、文久元年(1861年)、いちはやく武市半平太(瑞山)の土佐勤王党に参加した。
 後、脱藩して勝海舟に師事して海軍建設を計画し、叉長州(山口県)の桂小五郎(水戸孝允)、薩摩(鹿児島)の西郷隆盛を説いて慶応2年(1866年)薩長両薄の同盟協約を成功させ長州に押し寄せた幕府軍(徳川方)を撃破した。これを機会に討幕運動が高まったが、龍馬はこの薩長同盟の勢力に土佐藩を加え、これを背景とする王政復古を考え、土佐藩の参政後藤象二郎を説き、立憲的な議会制度を基とする新政府の出現を期した。
山内容堂(15代藩士)は後藤の提案を受け入れ慶応3年(1867年)10月3日将軍慶喜に大政奉還を建白した。
将軍も時勢を察し、10月14日に政権返上を朝廷に上秦した。龍馬はこれを喜び新政府創立に奔走したが、11月15日京都河原町近江屋で幕府方の刺客に襲われ、同志中岡慎太郎とともに凶刃に倒れた。
龍馬は海援隊長。慎太郎は陸援隊長として土佐藩の遊軍をつくり、その活躍が期待されたが、幕末の新旧勢力対立の犠牲となった。時に龍馬は33歳、慎太郎は30歳であった。 (説明板から)
坂本龍馬先生銅像建設由来記
 海の男としてたくましく生きた坂本龍馬先生の永遠の姿をわれわれはこの銅像に見る。海抜隊を創設し、薩長同盟を成立させて土佐藩を倒幕派陣常に誘い、将軍の政権奉還による王政復古を昆るまで33年の生涯は凶刃のために血潮に染められたが、先生の起案した
船中八策は新日本建設の柱として残された。その立憲会議制の提唱は明治の自由民権運動として展開され、日本近代化への道を大きく開いたのである。先生の夢は後代の青年の魂をゆさぶり続け、大正の末年本県青年たちの提唱によって、銅像建設のことも立案推進された。この桂浜の巌頭にをてられた先生銅像の除幕式は、昭和3年5月27日を期jして挙行された。建設資金は当時の青年たちの零細な拠出によって造成されたが、この計画は先生の往時の同志、田中光顕の賛助を受け当時25歳の青年秩父宮から寄付金が下賜されたのである。このことが一層県下青年を感奮させたと伝えられる。総工費2万5千円、像身53メー|ヽル、台座8メートル、製作者は郷土出身の本山白雲であ。除幕式の当時は軍艦「浜風」が銅像の下に投錨参列して祝意を表した。
青年の力によって建設されたこの銅像は青年のシンボルとして雨の日も風の日も力強く若者たちの魂に話しかけるであろう。
 建設以来55年を経、損傷の著しい銅像台座の修復工事を行うべく立ち上った現代の高知県青年は昭和58年3月20日、桂浜で盛大に竣工式を祝った。修復資金は一口100円の寄付を街頭募金を通じて県内外の龍馬ファンから募り、目標額をl上まわる573万1195円の寄付金を集めた。明治の青年たちが建設した、その意志を受けついで昭和の青年たちの手で修復しよみかえった坂本龍馬先生.の銅|象。
 「いつまでも伝えたい、龍馬の心を生き方をの合言葉とともに次代の青年たちにこの意志が受けつがれんことを期待する。
さらに、建立以来桂浜で風雨に耐えること70年。古希を迎えたのを機に、[日本も龍馬も倒しとうない」と、有志たちが龍馬f象修復実行委員会を結成。建立時と同様、龍馬を愛する人々から大きな浄財を得た。(総額5,941万4590円)。そして平成11年3月28日、修復・強化された龍馬像は再び太平洋を望んだ。「ありがとう。つぎは日本の洗濯ぜよ。」と、その姿は語っているかのようである。   (説明板から)
竜宮橋
龍王岬
龍馬ゆかりの地
昔、鳥居も橋も神社もきれいに朱色で塗られていて綺麗だったが、今はガッカリ。
海津見神社
龍王岬
坂本龍馬記念館
土佐藩山内家の紋『三葉柏』と岩崎家の紋『三階菱』を合成した三菱マーク
岩崎弥太郎
龍馬脱藩ルート記念の道標
浦戸砲台場跡
高知県高知市浦戸
浦戸城跡
月の名所は桂浜・・・・・・・
龍馬脱藩ルート
今の桂浜。遊歩道あり。桂浜は小さな玉砂利の浜辺だったのに、砂で一杯になっている。波打ちぎわだけ玉砂利だ、何で?
浦戸城天守閣跡へ
坂本龍馬記念館の前に在ります。
浦 戸 城
坂本龍馬像(台座が8m、像が5.25m)