函館重伝建保存地区
千國写真館
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ハリストス正教会
 安政6年(1859年)敷地内に建てられた初代ロシア領事館の付属聖堂として建立されたのが始まりで、正しくは「函館復活聖堂」という。 文久元年(1861年)青年司祭ニコライが、ロシアから来函し切支丹解禁を待って日本で最初にギリシア正教を布教した。(明治5年<1872年>東京転任) 明治40年(1907年)大火で類焼したが、大正5年(1916年)聖堂はロシア風ビザンチン様式で再建された。 この聖堂内部に、丸天井を装架しているのがこの様式の特機である。屋根に装置された数多くの十字架と、その装飾部を飾る冠状構造が独特の形状をつくつており、緑色の銅板屋根は昭和43年に改装され、緑青を化学的に熟成したものである。 再建当時の大鐘(重さ約2トン)は、大正12年(1923年)関東大震災で大破した東京ニコライ堂復興の際に移され、かわりに大小6個1組の鐘と交換された。リズムとメロディを送る音色から「ガンガン寺」として市民に親しまれたが、この鐘も戦時中供出した。 現在の鐘は、三重県桑名市在住の美術鋳造家から昭和58年6月に献納されたものである。昭和58年6月、国の重要文化財に指定された。    函館市   (説明板から)
朝 市
函館の朝は、ここ朝市から始まるといわれるように、朝市の人々の朝は早い。、まだ夜も明けぬ午前3時半ぱ、昔ながらの裸電球に日が灯り、商いの準備が始まって行く。ここ函館朝市は、戦後の物不足の時代から、函館市民の食生活を支え続け市民の台所として親しまれてきました。その昔朝市は、現在の函館市役所裏手に近郊農家のおばさんたちが農作物を持ち寄り、野菜を中心とした露店の集まりから始まりました。やがて段々とその規模は大きくなり、昭和32年(1957年)、現在の場所へと移り、野菜ばかりではなく陸揚げされたばかりの海産物を地元の漁師達がが持ち寄ったり、乾物屋や花屋、やがては衣料品・雑貨などを扱う商人達までもが集いはじめ、今では北海道一とよ呼ばれる「函館朝市」が誕生したのです。今でも変らず市場内は日の出とともに徐々に活気をおびて行き、威勢のいい売り声がどこからともなく響いてきます。いい食材を求め、早朝は地元郷土料理店などの仕入れ客が目立ちますが、やがて午前7時を過ぎると観光客や一般客でにぎわい、そんな朝の光景が幾度となく続き函館朝市の歴史を築いてきたのです。今でもこの広いドームの中には、朝市発祥当時をしのぱせる農家のおぱさん達や、地元漁師の方々が旬の野菜や新鮮な海の幸を並べ、素朴で人情味溢れる函館弁ともに、皆様のお越Lをお待ちしております。
  (説明板から)
赤レンガ倉庫群
護国神社
北海道函館市元町 【ほっかいどう はこだてし もとまち】
青函連絡船記念館
重要伝統的
建造物群
保存地区
高田屋嘉兵衛銅像
 ごの銅像は、嘉兵衛の功績を称えるとともに、箱館開港100年を記念して昭和33(1958)年に建てられた。制作者は箱館出身の彫刻家、梁川剛一である。 嘉兵衛は明治?年淡路島に生まれ、28歳のとき箱館に渡った。文政元(l818)年に故郷に帰るまで、箱館を基地として造船・海運業・漁場経営などを手がけ、国後島・択捉島の航路や漁場を開発し、箱館発展の基礎を築き、大きな業績を残した。さらに、ゴロヴニり事件という日露国家間の問題を、民間の立場ながら無毒解決に導いたことでも有名である。この像は、文化10(1813)年、□シア軍艦ディアナ号が捕らわれていたゴロブニン船長を引き取るため、箱館に入港した際に立ち会った時の嘉兵衛の姿である。右手に持つのが松前奉行からの論書、左手に持つのは艦内で正装に着替えた際に脱いだ衣装であり、仙台平の袴に白足袋、麻裏草履を用い、帯刀している。
   函館市   (説明板から)
八幡坂
はこだて
じゅうでんけん
ほぞんちく
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