将門首塚の碑
昔この辺りを芝崎村といって、神田山日輪寺や神田明神の社かあり、傍に将門の首塚と称するものがあった。現在塚の跡にある石塔婆は徳治二年(一三〇七)に真教上人が将門の霊を供養したもので、焼損したたびに復刻し現在に至っている。
明治二年(一八六九)より第二次世界大戦時まで、この地に大蔵省が設置され、大蔵大臣阪谷芳郎は、故跡保存碑を建立し、後人のために史跡保存の要を告示されたのである。
平成三年三月
千代田区教育委員会 (説明板から)
東京都文化財
将門首塚の由来
今を去ること壱千五拾有余年の昔、桓武天皇五代の皇胤鎮守府将軍平良将の子将門は、下総国に兵を起こし忽ちにして板東八ヶ国を平定、自ら平新皇と称して政治の革新を図ったが、平貞盛と藤原秀郷の奇襲をうけ馬上陣頭に戦って憤死した。享年三十八歳であった。世にこれを天慶の乱という。
将門の首級は京都に送られ獄門に架けられたが、三日後、白光を放って東方に飛び去り武蔵国豊島郡芝崎に落ちた、大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったという、村人は恐怖して塚を築いて埋葬した。これ即ち、この場所であり将門の首塚と語り伝えられている。
その後もしばしば将門の怨霊が崇をなすため徳治二年時宗二祖真教上人は、将門に蓮阿弥陀佛という法号を追贈し塚前に板石塔婆を建て、日輪寺に供養しさらに傍の神田明神にその霊を合わせて祀ったので漸く将門の霊魂も鎮まりこの地の守護神になったという。天慶の乱の頃は平安朝の中期に当たり、京都では藤原氏が政権をほしいままにして我世の春を謳歌していたが、遠い板東では国々の司が私欲に汲々として善政を忘れ、下僚は収奪に民の膏血をしぼり、加えて洪水や旱魃が相続き人民は食なく衣なく、その窮状は言語に絶するものがあったその為、これらの力の弱い多くの人々が、将門によせた期待と同情とは極めて大きなものがあったので、今もって関東地方には数多くの伝説と将門を祀る神社がある。このことは、将門が歴史上朝敵と呼ばれながら、実は郷土の勇士であったことを証明しているものである。
また、天慶の乱は武士の台頭の烽火であると共に、弱きを助け、悪を挫く江戸っ子の気風となって、その影響するところは社会的にも極めて大きい、茲にその由来を塚前に記す。
史蹟 将門塚保存会 (説明板から)
酒井家上屋敷跡
江戸時代の寛文年間この地は酒井雅楽頭の上屋敷の中庭であリ歌舞伎の「先代荻」で知られる伊達騒動の終末伊達安芸・原田甲斐の殺害されたところである。
(説明板から)
将門塚
撮影中も8名ほどお参りに来ました。中に入らずお辞儀をして立ち去る人も多く、なかなかの人気です。
東京都千代田区大手町1丁目【とうきょうと ちよだく おおてまち 1ちょうめ】