セミナリヨ址
安土セミナリヨと三木パウロ
一五八〇年五月オルガンチノ神父が信長から土地を下付されて開校したセミナリヨ(新学校)は、日本近代教育の幕開けにふさわしい充実した教育内容と、三階建ての豪華壮麗な大建築とで、遠く海外にも知られていた。このセミナリヨも、やがて本能寺の変に続く動乱のために消失し、安土にあったのは僅か二カ年余に過ぎなかったが、その間日本の精神的指導者となるべき幾多の優秀な人材が育成された、阿波の士族三木半太夫の子、三木パウロもその一人である。彼は一五六四年頃生まれ、幼少時に授洗、セミナリヨを卒業後一五八六年イエズス会に入り、布教活動に献身した。しかし一五九六年十二月秀吉のキリシタン弾圧にともなって大阪で逮捕され、翌年一月他の二十五名の信者とともに陸路九州へ護送されて、二月五日長崎西坂の丘で殉教した。一八六二年法王ピオ九世は彼ら二十六人の遺徳を讃えて全員を聖人の位にあげ、ここに三木パウロの名は日本二十六聖人の一人として、広く世界の人々の尊敬を集めることとなった。今日三木パウロの遺骨をこの地に迎えるにあたってその記念としてこれを建立するものである。 一九八一年五月三十一日 (説明版から)
セミナリヨの由来
かつてセミナリヨ(カトリック小神学校)のあったこの土地が、織田信長より教会建設用地として下附されたのは、一五八〇年(天正八年)五月二十二日のことであった。これによって、イエズス会のオルガンチーノ神父は直ちに高山右近をはじめ近在の信者たちの熱烈な援助を受けて、ここに三階建の堂々たる住院を完成したが、その後間もなくこの建物を用いてセミナリヨが開校された。一階には茶室の付いた座敷があり、二階は神父の居室、三階は教室と生徒の寮として使用された。授業科目には、日本文学、キリスト教■、ラテン語、修辞学、音楽などがあり、後に日本一七六架人の一人となったパウロ三木をはじめ、諸国から集まった二十数名の少年たちが寄宿して勉学に励んでいた。信長の特別の特別の許可により安土城と同じ水色の瓦で屋根を葺いたこの豪壮なセミナリヨには、連日多数の貴人が訪れたが、信長自身もしばしばここに立ち寄り、ときに少年の演奏するオルガンに聴きとれていたと伝えられる。かくして安土はこのセミナリヨにより、日本におけるキリスト教の一大中心地となるかにみえた、しかし、一五八二年六月信長が本能寺の変に死するや事態は一変し、セミナリヨの壮麗な建物も明智勢の侵略により廃墟と化した。やむなくセミナリヨは京都へ、さらに高槻、大阪へと移り、一五八七年秀吉の禁教令に際しては肥前国(長崎県)有馬のセミナリヨに合併されたが、それも遂には一六一四年徳川の大追放令のもとで廃校となり、その苦難の歴史を閉じることになった。 (説明版から)