筑前国
千國写真館
秋月城下町

あきづき
じょうかまち

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秋月城下町

秋月眼鏡橋
この石橋は文化七年(一八一〇)に架けられたもので、ことに花岡岩使用は国内でも珍しく、昭和三十一年四月県指定有形文化財(建造物)に指定されている。
ところで、この橋が架けられる以前は、板橋でありそのため、一度大雨が降れば野鳥川が氾濫し、橋の流されることが度々で、その都度、藩では橋の架け替えに手を焼いたものである。
そのころ秋月藩は長崎警備の代番を命ぜられ、長崎へ赴く者が多かった。それらの人々は中島川に架かる石橋に目をとめて、あんな橋が秋月にも、と思わない者はなかった。これに裁断を下したのが主席家老の宮崎織部舒安である。かくて長崎の石工に頼み工事は着々と進められた。完成までに数年を要し、一度は竣工間際に崩壊するという事態もあったが、さらに慎重を期し再度着工、見事に完成したのが現在の橋である。橋名は初め長崎橋、だが今は目鏡橋に定着している。
 (説明板から)

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種痘の始祖 緒方春朔 (おがた しゅんさく)
 緒方春朔は寛延元年(一七四八)、久留米藩士瓦林家に生まれ、後に医家緒方元斉の養子となる。医を志して長崎に遊学し蘭医学を修め、又中国の医書「宗金鑑」の種痘に興味を覚え、その研究に没頭した。 その後父祖の地秋月に移り、住民の医療に尽くし、時の藩主黒田長舒公に藩医として召し抱えられた。
 寛政元年(一七八九)の冬、秋月地方に天然痘が流行した時春朔は患者より痘痴を採取し、これを粉末にして木のへらに盛り、未感染の鼻腔より吸入させ接種する種痘法(鼻乾笛法)を考察、上秋月大庄屋、天野甚左衡門が二児に実施し、日本で初めて人痘種痘に成功した。時に寛政二年(一七九〇)二月十四日のことで、ジェンナーの牛痘種痘成功より六年前のことであった。
 又、我が国最初の「種痘必順弁」を著し、世に広くこの種痘法を紹介しその必要性を説いた。全国から春朔の種痘法の教えを請う医師、数百名にのばり、この種痘法が全国に普及し、後の牛痘種痘法が我が国で、成功普及するまでの約六十年間、我が国の天然痘予防に大いに貢献することになった。  甘木朝倉医師会 (説明板から)

秋月の乱で、西福寺で挙兵。入りきれなかった一 団は、この先の田中天満宮に集結した。

秋月党の乱
明治新政府における文治派と武断派の抗争は西郷隆盛の下野によって終止符をうったかに見えたが、このことは各地に反乱や反政府活動となって爆発した。これらの動きと呼応して肥後の神風連、長門の前原派、筑前の秋月党は三角同盟を結び政府攻撃により君側の奸を除こうとした、明治九年十月二十五日、秋月党の同志二百五十五名は今村百八郎、宮崎車之助らを盟主に仰ぎ西福寺を本陣として決起した。一行は小倉方向に向けて行動し近代装備の政府軍と相対したが、利あらず豊津の白兵戦で壊滅し残った者は自刃又は逮捕され斬罪徒刑等に処せられた。勝てば官軍の世とは云え、至誠憂国の士が戦場を熱血で染め屍を荒野にさらした日本の夜明けの一幕は、秋月党悲史として今なお多くの人々の胸中に息づいている。(説明板から)

瓦坂
瓦を縦に並べて土の流れを防ぐ。(看板から)

杉の馬場
この桜の並本道を杉の馬場という。
むかしこの辺に杉の大木があったためその名ありといわれる。桜並木となったのは明治三十八年(一九〇五)、日露戦争戦勝記念の遺産である。この道は城跡に通ずる。
ここはそのむかし藩主のお成り道。そしてまた藩士たちの登城道。時には馬術の稽古も行なわれた。当時両側には土塀をめぐらしたいかめしい門構えの武家屋敷が並んでいた。いうなれば秋月城下のメインストリート。(説明板から)

福岡県朝倉市秋月野鳥 【ふくおかけん あさくらし あきづき のとり】

 【秋月城跡】
県指定史跡。秋月黒田藩五万石藩主の居館。寛永元年(十六二四)に整備された。当時「御館(おやかた)」と呼ぱれていた内部は、表御殿(現在秋月中学校)と奥御殿(梅園公園)にわかれる。現在、前面の堀と石垣、大手門へ続く瓦坂、四基の櫓台、城門などが残されている。当時の大手門であった黒門(本門)、奥御殿へ通じる長屋門(裏御門)は県指定有形文化財。

腹切岩
三個並ぷ大岩のうち北側のものを通称腹切岩といっている。その岩の上面は平らでその広さは優に畳三枚敷かれる。天正十五年(一五八七)三月十四日、秋月種実の家臣恵利暢尭がこの岩の上で、妻子をまず刺し自らも腹かき切って従容として死についたというので、このように呼ばれているのである。
これより先豊臣秀吉は九州制覇を志し、大軍を率いて西下していた。この時恵利暢尭は主命を帯びて、敵情視察のため広島まで出向いたのであったが、秀吉軍の装備のすぱらしさを目の当たり見て大いに驚き、急ぎ帰って和睦の賢なることを勧めてやまなかったけれども、ついに容れられなかったから意を決し、主家のために潔く諌死したといわれている。時に三十八歳の花ざかり。中央の殉節碑は昭和十一年五月、暢尭ゆかりの人々によって建てられたものである。なお、近くにある嗚渡観音は黒田長興入国に当たり、その忠節に感じて建立したものという。堂下に暢尭の墓と伝えられる一基の墓石がある。
     (説明板から)