木曽義仲:幼名は駒王丸。義経の従兄弟に当たる。義仲の幼い頃、父義賢が甥の義平に討たれ捕らわれる。敵方の斉藤実盛は義仲を木曽の中原兼遠にあずける。義仲は木曽で育つ。
篠原古戦場 首洗池
(さねもりづか)
実盛塚
篠原古戦場 史跡 実盛塚
位置 加賀市篠原町
寿永二年六月源氏の若武者手塚の太郎光盛と 相博って劇的な最期を遂げた斎藤別当実盛を葬った墓所である。 康▽二年(一三九〇)時宗総本山(相模藤沢の清浄光寺)十四世遊行上人太空が此の地へ来錫の節実盛の亡霊が現れ上人の回向を受けて妄執をはらし上人は実盛に「真阿」という法名を興えられたと伝えている。以来
歴代の遊行上人が加賀路を巡錫の節には必ず立ち寄って此の塚に回向された謡曲「実盛」はこれらの伝説に基づいて作られたものである。
北海が盛りたる砂にあらずして
木曽の冦者がきづきつる塚 晶 子 (説明板から)
実盛塚
この一帯は源平争乱の舞台「篠原古戦場」です。寿永2年5月(1183年)、倶利伽羅の合戦の大勝の余勢をかって攻めたてる木曽義仲(源義仲)軍を相手に、敗走する平家軍の中で、たた一騎、踏みとどまって戦ったのが斉籐別当実盛でした。実盛は木曽義仲幼少時代の命の恩人でしたが、これを秘し、73歳という老齢の身を侮られぬよう白髪を黒く染め、名乗りもあげず戦いました。しかし、奮戦むなしく手塚太郎光盛に討ち取られ、劇的な最期を遂けてしまいます。そのなきがらを葬ったと伝えられているのが、ここ「実盛塚」です。伝説では、応永21年(1414年)に時宗14世遊行上人が篠原の地を巡錫中、実盛の亡霊があらわれ救いを求めたので、上人が回向したらたちまち成仏したといわれ、世阿弥作の謡曲「実盛」でひろく世に知れ渡っています。
ここ「実盛塚」の周辺には、討ち取られた実盛の首を洗ったとされる「首洗池」(ここから東方向に約1.4km、加賀市手塚町)や、実盛が髪を染める際に用いた鏡を安置したと伝えられる「鏡の池」(ここから西方向に約4.5km、加賀市深田町)など、実盛の伝説にまつわる場所があります。また、隣の小松市には、実盛の死を深くあわれんだ義仲が、実盛着用の兜や鎧などを奉納し、その供養を依頼した「多大神社」があります。加賀市
(説明板から)
石川県加賀市柴山町 【いしかわけん かがし しばやままち】
斉藤実盛:越前生まれ。実盛は元々は源氏方の武将で保元の乱、平治の乱では源義朝の家臣として仕えた。義朝が討たれた後は平家につく。
篠原古戦場 実盛塚
しのはら
こせんじょう
くびあらいいけ
篠原古戦場首洗池
寿永二年(一一八三)、倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲に大敗した平家の軍勢は、加賀平野を南下し、篠原の地(現在の加賀市篠原町付近)で陣を立て直し、義仲との決戦を図りました。しかし勢いづいた義仲軍を阻止することはできず、平家軍はふたたび敗れ去りました。 このとき、敗走する平家軍で、ただ一騎踏みとどまって、戦ったのが斉藤別当実盛でした。実盛は、老武者とあなどられることを恥とし、白髪を黒く染めて参戦しましたが、手塚太郎光盛に討ち取られ、劇的な最期を遂げました。 樋口次郎兼光が討ち取った首をこの池で洗ってみると、黒髪はたちまち白髪に変わりました。それはまがいもなく、その昔、義仲の命を助けた実盛の首でした。 この物語は『源平盛衰記』などに記されており江戸時代から人口に膾炙されていました。なお、実盛着用の甲冑を、木曽義仲が多太神社に奉納したと伝えられており、元禄二年(一六八九)芭蕉が『奥の細道』の行脚の途中に立ち寄り、この兜によせて 「むざんやな 兜の下の きりぎりす」と詠んでいます。(説明板から)
石川県加賀市篠原町 【いしかわけん かがし しのはらまち】