えちぜん
まるおかじょう
鯱(石製しやち)
この鯱は、もと木彫銅板張りであったものを、昭和十五年〜十七年の修理の際に、石製の鯱に改めたものです。その当時は戦禍中で銅板の入手が困難であったため、やむなく天守閣の石瓦と同質の石材で、つくりかえられたものですが、この石製の鯱も昭和二十三年六月の福井大震災により、棟より落下、現在の様な形で残っているものです。
現在天守閣の上にのっている鯱は、昭和二十七年圭三十年の修復時に、もとの木彫銅板張りに復元したものです。(説明板から)
伝説 「人柱お静」
これは柴田勝家の甥、柴田勝豊が天正四年(一五七六)に丸岡に築城の際、天守閣の石垣が 何度積んでも崩れるので人柱を入れるように 進言するものがあった。そしてその人柱に選 ばれたのが二人の子をかかえて苦しい暮しを していた片目のお静であった。お静は一人の子を侍に取りたててもらうことを約束に、人 柱になることを決意し、天守閣の中柱の下に 埋められた。それからほどなくして、天守閣 は立派に完成した。しかるに勝豊は他に移封 し、お静の子は侍にしてもらえなかった。
お静の霊はこれを恨んで、毎年、年に一度の藻刈りをやる卯月のころになると、春雨で堀には水があふれ、人々は、“お静の涙雨"と呼び小さな墓をたて霊をなぐさめた。
「ほりの藻刈りに降るこの雨は、いとしお静の血の涙」という俗謡が伝えられている。
(説明板から)
丸岡城天守閣「重要文化財 別名 「霞ケ城」
天正三年(一五七五)織田信長が北陸地方の一向一揆の平定を期して、豊原寺(現在地の東方約一四Km)を攻略した。信長は柴田勝家の甥、伊賀守勝豊を豊原へ派遣し城を築かせた。
天正四年勝豊は豊原城を丸岡に移した。これが現在の丸岡城となる。柴田勝豊のあと、安井左近家清、青山修理亮、青山忠元、今村盛次等が一時これを支配し、その後、本多成重以下四代の居城となったが、元禄八年五月有馬清純の入封以来、明治維新に至るまで、八代にわたって有馬家の領有することとなった。
平章館(現在の平章小学校)の創設者、有馬誉純(五代)は文教政策に力を注ぎ、文教の礎となる。
明治三年三月、版籍奉還後、同四年九月官有となり、さらに民有に移り、明治三十四年八月町有となる。その間、周濠は埋められ、城門、武家屋敷等の建物は売却または譲渡され、現在わずかに天守閣とその附近の石垣の小部分を残存するだけとなった。
昭和九年一月三十日、国宝に指定されたが、昭和二十三年六月二十八日、福井大震災により倒壊、昭和二十五年八月二十九日、国の重要文化財に指定され、昭和二十六年十二月復元に着手、用材は八十%近く古材を使用し、昭和三十年三月三十日修理復元され現在に至る。
本城は二重三層、外観は上層望楼を形成し、通し柱をもたず、初重は上重を支える支台を成す。構架法、外容ともに古調を伝え、屋根は石瓦(笏谷石)で葺き、基礎の石垣は野面積み、これは我が国城郭建築史上、現存の天守閣の中で、最古の様式のものである。(説明版から)
福井県坂井市丸岡町霞町1丁目 【ふくいけん さかいし まるおかちょう かすみちょう 1ちょうめ】
この井戸の由来
天正三年(一五七五)織田信長が越前の一向一揆を平定後、柴田勝家の甥、伊賀守勝豊が豊原からここに移り築城した。豊原は一向一揆の最後の根拠地であった為、この地に築城後も一揆の残党が攻撃をしかけてくることも、しばしばあった。しかしそのたびごとに、この井戸の中より大蛇があらわれ、城に“かすみ”をかけて城の危機を救った。
この伝説が別名「霞ケ城」と呼ばれる所以である。現在も春先などは、すっぽりと“かすみ”に覆われた「霞ケ城」を見ることが出来る。(説明板から)