富士太郎杉
富士夫婦桧
Counter

山梨県富士吉田市上吉田 【やまなしけん ふじよしだし かみよしだ】

千國写真館
北口本宮
富士浅間神社

ふじ せんげん
じんじゃ

角行の立行石
仁王門礎石

 この立行石は、慶長十五年(一六一〇)の冬、富士講の開祖角行東覚(当時六十九成)が吉田の地を訪れ、富士山霊を遥拝し、醵のの中を穏身にで、石上に爪立ちしで三十日の荒行をした。 全身より血を噴き、里入の勧めで行を止めたと伝えられでいる。 角行は本名を藤原武邦といい天文十年(一五四一)正月十五日、九州長崎で生れた。戦国の世にあつで天下泰平・国土安穏・衆生済度の入願を成就すべく難行苦業の道に入つた。 永禄二年、十八歳で故郷を出立ち岩手県磐井郡の『脱骨の窟』で三十七日の行をなし、のち神告により富士の『人穴』に入り、四寸五分角(約十四センチ四方)の材木に一千日爪立ちするという捨身の荒行をおえ、解脱し角行と称した。 元和六年(一六二〇)角行七十九歳の時、江戸に『つきたおし』という奇病がはやり、三日で千人死んだともいわれたが。『風先?』により病を癒し庶民を救い、その名を高めた。 正保三年(一六四六)六月三日、百六歳にて大往生したが、生涯における修業で主なものは不眠の大業一万八千八百日、立行三千日、断食三百日、造字三百六十字、富士登頂百二十八回に及んだといわれ、富士講の開祖となった。
     (説明板から)

 当浅間神社境内には神仏混淆時代、五重塔・鐘楼・仁王門なと、仏教色の濃い壮麗な堂塔があり、美事な調和をみせていた。
 明治初年、『神仏分離令』施行の際撤去され、五重塔・鐘楼は礎石までわれて、現在その建っていた跡を確認することはできない。
 仁王門は取り払われたものの、貴いにしてこの礎石はその難を逃れ、往古のままに現存して昔日の面影をしのばせている。   (説明板から)

二の鳥居
手水舎(水汲み禁止です)
七色もみじ(今は黄色?)
悠仁親王殿下誕生  冨士太々神楽舞を奉納してました。
拝殿
境内社
祖霊舎(富士登山口)
西宮本殿
本殿
富士浅間神社の紅葉
祖霊舎(富士登山口)
小御岳神社
東宮本殿

この木は二本のヒノキが根元で一木になり、また地上約一二メートルで再び合着しでいることから「冨士夫婦檜」と呼ばれ、広く市民に親しまれでいる。根張りが著しく発達し漏斗を伏せたような形になっでおり、枝は上部で四方によく伸びで大変見事である。 合着木ではあるが、県下で最大のヒノキの巨樹であり、市内の代表的な巨樹である。    (説明板から)

本樹は樹齢千年くらいと言い伝えられている。根張りが著しく発達し漏斗を伏せたような樹形は、ご神木の名に恥じない荘厳さがあり本殿を見守るかのようである。「富士大郎杉」と呼ばれ、広く市民に親しまれている。南側付近の損傷部分は、昭和三十四年八月の七号台風により被害を受けたものである。 山梨県を代表するスギの巨樹として、山梨県の天然記念物の第一号に指定された。    (説明板から)

地図リンク

重要文化財  北口本宮冨士浅間神社西宮本殿   昭和二十八年三月三十一日指定   鎮座地 冨士吉田市上吉田五五五八
 祭神 天照大神、豊受大神、琴平大神。大禄三年(一五丸四)谷村城主浅野左衛門佐氏重により東宮に替わる本殿として建立されたが、元和九年(一六一五)鳥居成次の本殿建立により現在地に移され西の宮となった。その後享保十九(一七三四)村上光清により大修復が行なわれた。 舎体の形式は東宮と同じ一間社流造であるが、両刎面と背面は二間で一間の向拝をつける。身舎会面と刎面には刎高欄付きの縁を回し、全面には登高欄付の七段の階をもうけている。身舎は床下八角の丸柱、向拝は面取りの角柱で頭貫中央にかえる股を置き、木鼻には獅子と貘の彫刻を置く。かえる股、木鼻には極彩色が施され、細部に渡って装飾、飾り会具が用いられているが、向拝柱の飾り会具には村上光清の紋である卍と藤の紋がつけられているので光清修復の時のものであろう。屋根は桧皮葺、二重軒付で破風に鏑懸魚をつけている。会体に華麗な桃山前期の建築意匠を伝え、荘厳な本殿建築に向かっての流れを感じさせるものである。 昭和三十九年(一九六四)解体修理を行なった。
  平成十二年三月     山梨県教育委員会         富士吉田市教育委員会

 重要文化財  北口本宮冨士浅間神社東宮本殿   明治四十年八月二十八日(旧国宝)指定     鎮座地富士吉田市上吉田五五五八 祭神天津日高彦火火出見命、富士権現とも呼ばれた。貞応二年(一二二三)北条義時の創建とも伝えられるが、現社殿は永禄四年(一五六一)武田信玄が川中島舎戦の戦勝祈願して浅間本社として造営したものである。 その後文禄三年(一五九四)に浅野氏、元和元年(一六一五)に鳥居成次が修理し、さらに、慶安二年(一六四九)と延宝六年(一六七八)には秋元氏、享保十九年(一七三四)には村上光清による修理が加えられた。 本殿は身舎梁間一間、桁行一間で会面に一間の向持をつける一間社流造の形式である。柱は床下部八角の丸柱を用い、高欄を回した縁と登高欄村五段の階を持つ。屋根は檜皮葺で身舎からそのまま向拝まで延び破風には鏑魚をつける。この様式は向拝頭貫のかえる股の彫刻とともに室町時代の手法を残すものである。外観の要所に施した装飾には桃山時代の影響が見られる。向拝柱にある会具の卍は村上講社の講印であり、藤の紋章は村上家の紋であるので、光清鴎理の時村けられたものであろう。 昭和二十七年(一九五二)解体修理を行なった。
  平成十二年三月     山梨県教育委員会   富士吉田市教育委員会    (説明板から)